東日本大震災は2万人近い命を奪い、東北を深く傷つけた。古里を離れた人も多い。最新の2015年国勢調査によると、震災は被災地の人口減を一気に進ませ た。日本全体でも人口減はもはや避けられない。被災地の姿は10年後、20年後、私たちが住む日本のどこかで起きる現実だ。どの時代、どの地域でも安心し て生まれ、育ち、老いていきたい。超高齢化を伴う人口減少に適応し心豊かに暮らす「適少社会」の実現が求められる。巨大津波と未曽有の原発事故に苦しみな がら再生へ歩む被災地に、将来の日本のモデルがある。
◎人口減 復興のかたち[1]第1部兆し(1)安心感
仮設住宅から勤め先までは車で25分かかる。宅地造成で山が削られ、低地のかさ上げが続く。朝夕の行き帰りで景色が変わる。
阿部菜央さん(28)は2012年1月、大学生、社会人として約6年暮らした盛岡市から宮城県南三陸町にUターンした。
津波で約800人が亡くなり、6割の住宅が全壊した。町の人口は流出が進み、15年の国勢調査では前回10年から29.0%減の1万2375。減少率は県内の市町村で2番目に大きい。
実家も流された。11年末、両親と祖父が住む同町戸倉の仮設住宅に帰省中、古里への移住を切り出した。
復興のため、そんな理由ではない。母が長期入院することになり、家族が心配になった。問題は就職先があるかどうか。素早く母が探してきたのが、同町入谷のYES(いえす)工房。そこで今働く。「幸運だった。高校生のころ、地元に仕事はないと思っていた」
工房は11年7月、被災地に雇用を生もうと町民有志が設立した。名産のタコをかたどった「オクトパス君」のグッズ販売が主力事業だ。現在13人が働き、木工や繭細工にも取り組む。
創業者の一人、阿部忠義事務局長(57)は、工房運営の根っこには、地域が育んだ人や感性、資源への敬意があると説く。昨年春、緊急雇用の助成終了後も、解雇は行わなかった。
「大企業にはなれない。農林、観光と連携し、地域経済を盛り上げる名脇役になりたい」。近い将来、非営利の任意団体から株式会社への脱皮を目指す。経営基盤の確立を図る。
人口減は商売上マイナスだが、開発力を高め、働き方や売り方を工夫すれば補えると考える。人口が減っても、古里で人生の質を高めればいい。「そのために働きがいのある職場、生きがいのある地域をつくる」。忠義さんの理想は高い。
復興支援の風を受け、オクトパス君は町を代表するキャラクターに育った。菜央さんはネットショップの管理と顧客窓口を担う。応対が町の印象を左右しかねない。充実感がある。
仕事を通じ、町内外の人と話す機会が増えた。「震災を機に大手企業を辞めて移住してくる人もいる。便利さや高給だけが幸せではないと考えさせられた」
時々、仮設の玄関先に採れたての野菜や魚が届く。誰が持ってきたか分からない。でも平気で食べる。都会ではあり得ない。田舎は退屈な場所だと思っていた。顔の見える社会の安心感、心地よさに気が付いた。
10年間で町の人口は3分の2になった。「寂しいけど仕方ない。南三陸の子は一度は外に出る」。今は古里にも楽しい暮らしがあると知った。仕事を通して町の魅力を発信したい。Uターンして4年、いくらか成長したかもと思っている。
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第1部は被災地の人口減に伴う新たな動きを追う。(「適少社会」取材班)