面倒なリクエストばかり繰り返す、あまりの横暴ぶりに従業員がやめてしまう、使った部屋はいつもびしょびしょに濡れている――そんな「わがまま老人客」と対峙したホテルマンが最後に下した決断とは? 老人問題に詳しいライターの林美保子氏による新書『ルポ 不機嫌な老人たち』より一部抜粋・再構成してお届けする。
近年、デパート、コンビニ、レストラン、コールセンターなどさまざまなシーンで、顧客からの悪質なクレームや理不尽な要求、いわゆるカスタマーハラスメント(以下カスハラ)が大きな問題になっている。
産業別労働組合「UAゼンセン」の流通部門が約5万人を対象に、「悪質クレーム対策(迷惑行為)アンケート調査」(2018年9月報告)を行ったところ、「迷惑行為に遭遇したか」の問いには、70.1%が遭遇したと答えたという。そのうち、「精神疾患になったことがある」(0.5%)、「強いストレスを感じた」(54.2%)、「軽いストレスを感じた」(37.1%)と、何らかのストレスを感じた人の合計は91.8%にも上り、精神疾患を経験した人の実数は184人だった。
このような風潮は韓国でも深刻で、2018年10月にはカスハラ対策を企業に義務づける法律が施行された。日本でも、厚生労働省がカスハラの指針を作る動きがあるようだ。
■「高齢者ばかりキレる国」日本
日本では特に、〝お客様は神様〞的なおもてなし精神が行き渡りすぎて、お客が求める水準が高くなってしまったという指摘もあり、大阪府のコンビニエンスストア店長、札幌市のアパレルチェーン店員などに対する土下座強要事件も起きている。このような悪質なカスハラは若い人の仕業であったりもするが、日常的なクレームに関しては、圧倒的に高齢者が多いらしい。
確かに、スーパーなどで突然怒鳴り声が響き渡り、驚いて声のほうに目を向けると、そこに立っているのはなぜかいつも高齢男性だ。
ある日、郵便局を訪れたときのことだった。突然大きな怒鳴り声が聞こえ、振り向くと、70代くらいの男性が女子局員に向かって、何やら文句を言っていた。すぐに、責任者らしき男性が駆けつけて、説明をする。どうやら、何らかの手続きに身分証明書が必要らしく、「これでは受けつけられない」と言われたことにキレてしまったらしい。
「健康保険証なんて持ってきてないよ! そんな大事なものをいつも持ち歩くわけがないだろ!」
男性は振り上げた拳を下ろせないでいるようで、屁理屈とも言えるような反論を繰り返している。その場に遭遇したお客たちは、困った顔をしながら遠目に見ているだけだ。
私は、ホテルマン、旅行関係者などに取材して体験談を聞いてみたが、だれもが声を揃えて、「クレーマーは高齢者が多い」と語る。これは、いったいどういうことなのだろうか。
水原久さん(58歳・仮名)は、9年前に開業した都内のホテルで、1年前から総支配人を務めている。
開業まもない頃からずっと、月曜日から4泊して金曜日にチェックアウトするという常連客の男性がいた。70歳くらいなのだが、まだ現役バリバリの営業部長で、自宅が遠いためにこのホテルを定宿にしているのだという。
「開業当初はオープン価格料金で泊まっておられていたのですが、途中から1万円に上げさせていただき、それがずっと続いていました。現在、当ホテルの宿泊料金は、時期や曜日によって変動はあるのですが、平均すると1万6000円ですから、かなり安くしていると思います」
利用頻度をみれば、大得意客だと言えそうだが、実は目の上のたんこぶとも言えるやっかいな人物だった。いつも威張っていて、イライラしている。自分の思うようにならないとすぐ怒鳴る。
■わがまま老人のリクエストの嵐
「粘着カーペットクリーナーを部屋に置け」「絆創膏を置け」「乳液を置け」「湿布薬を置け」「シャンプーはこれじゃないとだめだ」
男性は事あるごとに、リクエストをしてきた。
「その度に彼の部屋に常備される品が増えていき、習慣化してしまったんですね。男性なのに、乳液なんか要るのかなと、僕なんか思ったりもするんですがね。そうやって、ホテル側が甘やかしてきた面もあります」
リクエストしたものと違う湿布薬が入っていただけでキレる。
「オレが使っている湿布薬はコレじゃねえ! わからないのか、おまえは! おまえはもういい!」
ホテルの従業員をおまえ呼ばわりして、召使いのように扱う。
「綿棒が足りないじゃないか。いますぐ、持って来い!」
あまりの横暴さに、新入社員が泣いてしまったこともある。
「彼のおかげで、2人辞めました。『あの人には会いたくない。私は金曜日から日曜日だったら勤めてもいいです。あの人のいないときに働きたいです』と言った女性社員もいたのですが、そういうわけにもいきませんからね」
時折、フロントでばったり会うと、「おう、コーヒーでも飲みに行こう」と、水原さんを誘ってくる。
「私は抜けられないんです」
「なんで、抜けられないんだよ!」
相手の都合などお構いなしで、自分の思い通りにならないと、どんどんエキサイトしてくる。
部屋の使い方にも問題がある。男性は毎日、バスルーム全体にガンガン水をかける。
「おかげで、いつもバスルームの扉の下から水が外に漏れて、タイルカーペットがびしょびしょになるんです。だから毎日、タイルカーペットを4枚くらい取り換える作業が必要になります」
水原さんは、やめてもらうようにお願いしたことがあるが、「バスルームが汚いから、オレがきれいにしてやっているのがわからないのか!」と、怒鳴られた。
「私が見たところでは、汚いとは思えないんですけどね」
枕が、いつもびしょびしょになっている。
「どうして、いつも濡れているのですか」と聞くと、「夏だから、汗をかくんだ」と答える。
「あれが汗だとすれば異常です。体がどこか悪いんじゃないかというレベルです。おそらく頭を洗ってから、ロクに髪を拭かずに、そのまま寝ているんじゃないかなと。気持ち悪くないのかなと不思議になるくらいですね」
最近では、「部屋で怒鳴っている声が聞こえる」と、他の宿泊客から騒音被害を訴える声も増えてきた。
「そのことを指摘すると、『オレの思い通りにならないから怒っているんだ!』と言うんですね。『こいつはダメだ! 辞めちまえ! おまえはクビだ!』と、私なんかも何度も言われました」
■重箱の隅をつつくようなクレーム
笑顔を絶やさない女子社員がいた。ある日、水原さんはたまたま彼女とすれ違ったとき、笑顔がなかったためにただならない気配を感じた。
「何、どうした?」
「実は例の方が、『ポットが汚い』と言うので、いま取り換えようとしているところです」
まもなくして、彼女がポットを抱えて戻ってきた。顔は一層曇っている。
「どうした?」
「今度は、コードが汚いと言われました」
よくよく聞くと、汚いのはコードそのものではなく、コードについている「お持ち帰り厳禁」と書かれたシールタグのことだった。重箱の隅をつつくようなクレームに、彼女は泣き出すのを必死に耐えているような表情を浮かべている。水原さんは決心した。
「これはもう、ダメだな。なんとか、この人を追い出すしかないと思いました」
しかし、旅館業法第5条では、宿泊拒否の禁止を謳っている。水原さんは弁護士、保健所などに相談した。
弁護士によると、東京都旅館業法施行条例第5条では宿泊を拒むことができる事由として、「宿泊者が他の宿泊者に著しく迷惑を及ぼす言動をしたとき」などの特例が認められていることが判明した。また、区の条例ではさらに踏み込んであり、「暴力的要求行為や合理的な範囲を超える負担を求められたとき」という表記もあった。
弁護士には、「必ず本人の前で条例を読み上げてください。録音もしてください」と言われた。
保健所に相談に行ったのは、男性が宿泊拒否を不服に思った場合、宿泊施設を監視指導する立場にある保健所に駆け込むかもしれないと思ったからだ。
「『こういうお客様がいて、宿泊をお断りしようと思っています。もし、そちらに相談に来るようなことがあったら、よろしくお願いします』と申し出たところ、『ホテルの方から、このようなお話があったのは初めてです。連絡を入れていただくと、みんなで情報を共有できます』と喜ばれました」
宿泊者から苦情があった際、保健所は、苦情を申し出た当人に、「名前を公表していいかどうか」を確認するそうだ。名前を伏せることを希望する場合には、宿泊施設に苦情の概略を告げて、具体的な内容は話さずに指導を行う。名前を明らかにしてもいい場合には、当人の名前を提示して、より具体的にホテルに指導をする。保健所はあくまでも、中立の立場で話を進めるのだという。
■わがまま老人の末路
水原さんは、男性に電話をして、「明朝部屋に伺いたい」と告げた。
「出かける用意ができたら、オレから電話をする」ということだったが、朝9時を過ぎても電話が来ない。業を煮やして、9時40分に電話をかけた。
「何の用だ?」
「聞きたいこと、お願いしたいことがあるので、ちょっと伺いますよ」
部屋に行くと、また、怒鳴られた。
「何の用で来たんだ? いきなり来やがって! 来るときには理由くらい言え!」
「だから、聞きたいことがあるんです。なぜ、バスルームがこんなにびしょびしょになっているんですか? なぜ、枕もびしょびしょなんですか? なぜ、そんなふうに声を荒らげるのですか? これ以上のご宿泊は無理です。これに関しては、当方の弁護士に相談しておりますし、あなたが文句を言うとすれば保健所だと思うので、保健所にも相談済みです」
水原さんはそう言って、区の条例を読み上げ、「今後は、一切お断りします」と締めくくった。
「てめえ、このやろう!」
男性は大声を上げたが、次には、「出かける!」と荷物を持って、愚図ることもなく、さっさと出て行った。最後は意外に思うほどあっさりしたものだった。弁護士や保健所に相談したということが効いたのかもしれない。