新型コロナに関連してはPCR拡大論がかまびすしい。筆者は、有症状・無症状にかかわらず、感染者を早期に発見し隔離することは、現時点においても公衆衛生上の意味があると考えている。と同時に、近い将来、たとえ有効なワクチンや治療薬が開発されていなくても、無症状の患者をせっせと見つける努力自体が「バカらしい」「無駄」と見なされるようになるであろう、とも思っている。重症者だけ見つけてそこに集中的に医療資源を投下すればいいという考え方だって、限られた資源の配分としては十分に有力なものだからだ。 新型コロナウイルス特集など、最新情報をモバイルで詳しくはこちら PR Microsoft ニュース
皆が非効率な検査に疲れ果て、有限な資源を無駄遣いしていることに気づくと、検査の最適化の問題が改めて議論されることになるだろう。そしてそれは、指定感染症としての扱いをどうするかという議論にとっても避けることができない。指定感染症のひとまずの指定期限は来年1月である。
二類感染症相当(結核、SARSなどと同様)を五類相当(季節性のインフルエンザと同様)とするのかという問題の本質は、社会が新型コロナウイルスの流行についてどの程度までなら仕方ないものとして許容し、そのためにどの程度の負荷(不便、わずらわしさ、費用等)を引き受けるのかということである。仮に季節性インフルエンザと同等の扱いをするとなったときに、社会のあらゆる場面でPCRスクリーニングを課すのはあまりにバカバカしい姿に映ることだろう。
非効率な検査に公衆衛生上のメリットはない
現時点ではまだ意味がある、とした理由は、新型コロナが1年の四季を通してどのような流行の形をとるのかが、まだわかっていないからだ。特に冬場に向けてある程度正確な感染動向を知ることは、この新しい感染症に対する政策を立案するうえでまだまだ重要である。そのような公衆衛生的、行政的必要から、当面はPCR検査による感染者の捕捉をより徹底する必要がある。現状では数量的にも足りていないし増やすべきだ。その意味で、筆者は一貫してPCR拡大論者である。
しかし、筆者の拡大論は、巷(ちまた)にあふれる無分別な拡大論とは区別されるべきものであることを強調しておきたい。本来重要なことは「感染が疑われる人(=検査を最も必要とする人)が速やかに検査されること」である。
ところが、「国民全員に検査を」「希望する人は誰でも」というような、国民全体の有病率がそのまま検査前確率であるような人々に対する検査を求める声が根強い。このような、「疑わしい要素が特段にない人まで検査すべき」という主張を、以下、「巷のPCR拡大論」と呼ぶ。この「巷の拡大論」の問題点は、PCR検査の量的拡大の意義をまったく誤解していることにある。ただ検査の数だけが増えればいいのではないのだ。検査することで、一人でも多くの感染者を見つけ出すことこそが重要なのだ。
「巷の拡大論」の問題点を言い換えれば、それは検査前確率の無視ということになる。疑ってもいない人の検査を増やしても、陰性という当たり前の結果が増えるだけに終わる。その一方で、なんらかの症状や接触歴がある「検査すべき人」に速やかな検査がなされないという根幹の問題には何の改善ももたらされない。社会的資源を使って無駄な検査をすることは、公共政策の観点からは害悪でしかない。
PCR検査の感度が7割とされていることはかなり知られるようになった(新型コロナウイルス感染症対策分科会の資料)。10人の感染者を集めてきて検査をしても、陽性となるのは7人で残りの3人は陰性になる。「陰性証明」なる不思議な言葉があるが、1回のPCR検査で陰性を証明するのは不可能である。
しかし、医療現場でもしばしば感染対策のためという名目で入院患者や出産・手術前のPCR検査が行われる。これはかなりナンセンスかつ滑稽で、結果が陰性であっても感染していないことの保証にならないため、結局は「感染している可能性がある」と考えて対処しなければならない。つまり、検査することには感染対策上の意味がないということになる。
地域での流行期には、検査結果にかかわらずすべての患者が感染している可能性が一定程度あると考えて感染対策を講じるしかない。これは標準予防策の核をなす考え方であり、1980年代以降、遅くとも今世紀に入って以降の医療現場では、常識化しているはずのものだ。実情としては、検査によってあらゆる感染の有無が見える化できると信じている医療者もいるが、それはただ常識が欠落しているだけである。どうしても陰性証明がほしいのなら、手術前に潜伏期間分の日数を隔離したほうが確実である。
無作為検査では1人見つけるのに数千万円の公費投入
それにもかかわらず、ひとまず目の前の患者に陰性のお札(ふだ)を貼って安心したい一部の医療者が、手術前・入院前・出産前などさまざまな場面でのPCR検査を保険収載するように働きかけ、これが実現されてしまった。このような「特に感染が疑われるわけではない人をあえてふるい分ける」検査を総称してスクリーニング検査という。
スクリーニング検査で陽性となる頻度については、これまでに公表された大規模な調査はないが、筆者の見聞の範囲では数千例に1度程度の陽性率である。PCR検査1件は病院がインハウスつまり自施設で検査すると1万3500円の公費、外注すると1万8000円の公費を使う。仮に陽性率が5000例で1度とすれば、1人の陽性者を見つけるのに6750万円(すべて自施設:13500円×5000)~9000万円(すべて外注:18000円×5000)の公費(保険料+税金)が投入されていることになる。
加持祈祷と実質的に変わらない陰性証明や極めて非効率な陽性者捕捉のために、こうした数字を広く国民に周知して議論することなく、多額の公金を投入していることは問題である。
一方で、診療報酬とは無関係の、いわゆる自由市場でのPCR検査も増えている。プロスポーツや、演劇などの芸術分野、企業が労働者に対する福利厚生として、また顧客サービスとしてなど、さまざまな場面で非医療のPCR検査がなされるようになった。これらは、社会経済活動を進めていくうえでの「安心」のための検査だという。言い換えれば、陰性という結果を得たいがために検査するものということだ。
陰性という結果が、「感染していないこと」を保証しないことは医療の場合と同じである。むしろ、非専門家である非医療者に、実態とかけ離れた安心を不用意に与えることの問題のほうが大きい。本来は、医療者がこのような検査の使い方の誤用を指摘し、専門知識に基づいて社会をリードする必要があるが、日本の医療者自身が上述のとおりなので、つける薬がない。
寺や神社のお守りの御利益(ごりやく)については、売る方にも買う方にも、それがどういうものであるかに関する共通理解がある。しかし、PCR検査による陰性証明の本当の意味をどれだけの人が正確に理解しているだろうか。「PCR検査の陰性」があたかも「感染していないことの科学的証明」であるかのごとくこのサービスを提供することは、控えめに言って経済学で言うところの情報の非対称である。
ご利益があるかのように偽るシンプルな詐欺
ある経済学者にそのように話したところ、さらに興味深い指摘をいただいた。「非医療におけるPCRに関しては、確かに情報の非対称性問題がある。しかしこれまでのところ、結果として生じているのは逆選択(非効率)やその結果の市場崩壊ではなく、むしろその逆だ。医療や科学を装った”専門家”に一般人が騙されている限り、市場は崩壊などせず、むしろ活況を呈している。価格も上昇し、顧客も満足しているのだから、ご利益がないものをあると偽ったシンプルな詐欺だ」というのである。
非医療の検査に積極的に取り組んでいる機関としても「検査は100%ではないですよ」という説明書きをアリバイ程度に配布しているだろう。しかし、検査してほしがる人はそこに行きつくまでに十分洗脳されているので、ブレーキがかからない。このような詐欺問題の責任は、そのサービスの提供者にあるというより、「巷の拡大論者」とそれを容認したり拡散したりしている社会全体にあるというべきだ。
経済学的には、非医療の検査需要が医療での必要な需要を圧迫したとしても、多くの人々が嘘でも安心を感じることができれば効用は上がるだろう。その意味で、ここでPCR検査の科学的意味を指摘をすることがみんなの効用(幸せ)を低下させることになるのかもしれないと思うと、いささか心苦しい気もする。
「検査前確率5000分の1のとき、感度70%、特異度99.9%の検査で陽性となった患者の検査後確率は何%か?」
注)感度:感染している人をちゃんと陽性と判定する確率
特異度:感染していない人をちゃんと陰性とする確率
これは毎年医師国家試験に出されるボーナス問題である。数字はもちろん毎年変わるのだが、今度の国家試験は新型コロナウイルスを想定したものになるのではないだろうか。政府の分科会の資料によると新型コロナウイルスのPCR検査の感度は70%、特異度は99.9%として試算されている。
すべての医師が一度はこの問題を解いたことがある。しかし、医療者でない一般の市民がひょんなことからスクリーニングPCR検査を受けることになって、結果が陽性であったら、ほとんどの市民は「自分は100%感染している」と思ってしまうのではないだろうか。
ところがこの検査問題の解答(その人が本当に感染している可能性)は「約12%」なのである。88%は偽陽性、つまり本当は感染していないのに間違って検査で陽性とされた、に該当する。この計算結果は、多くの人の直感を裏切るものだが、計算は極めて簡単だ。
例えば5万人のうち10人だけ感染者がいる集団の全員に検査するとき、本当に感染している10人が検査で陽性となるのは、感度70%なので7人である。4万9990人の非感染者については、特異度99.9%なので誤って陽性(偽陽性)となるのは0.1%の49.99人である。つまりトータルで56.99人が検査で陽性となるが、本当の感染者はそのうち7人だけなので、割合でいうと約12%になるのだ。
無作為検査で人権侵害や不利益を被るリスク
この算数が実際の個人に対して持つ意味は極めて大きい。医療機関をはじめすでにいろんな場所でスクリーニングと称する安心のための陰性確認が横行している。筆者も、このようなスクリーニング検査で誤って陽性とされて入院等の隔離措置を取られたとか、そうなりかけた患者を見聞きすることが増えてきた。不安という心理面を除いては、症状はもちろんなく、入院後に確認のPCR検査を繰り返しても陰性が続き、数週後に抗体検査を複数種類行ってもどれも陽性にならない症例である。
新型コロナウイルス感染症は感染症法上の指定感染症であり、いったん確定診断されると行政に届出される。届出を受けた行政は、周囲に接触者がいないかを詳細に聴取し、それに基づいて家族や職場の同僚なども次々検査される。そのような中で、理不尽なスティグマ(汚名、烙印)を負わされ、退院後もなかなか職場復帰できないなどのケースも起こっている。指定感染症である以上、感染者は法令に基づいた人権の制約を引き受けざるをえないが、それ以上に多くの不利益を被ることが少なくない。
スクリーニング検査は、「感染を疑わせる症状も曝露歴もないが、念のために陰性を確認する」ことを目的に行われる検査である。そこでは、検査する側もされる側も陰性を確認することしか頭にない。しかし、もし陽性が出たらそれをどう解釈するつもりか。症状や曝露歴での絞り込みを行わずに検査前確率が低いままスクリーニング検査を行うということの意味を、陽性になった場合も含めて考えておく必要がある。