au携帯の「あたらしい自由」を伝えるCMシリーズは、合間に、突然「巨人の星」の星飛雄馬の顔がインサートされ、『俺は(スマホを)選べない!子供の頃から野球だけだ!』と涙。この「ありえない設定」は若い世代にウケる一方、高度成長期を体験した中年世代には違和感が広がっているという。その深層を、作家で五感生活研究所の山下柚実氏が解説する。
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いよいよ新学期が始まり、新入社員を迎える春、大量のCMを投入する携帯電話会社。激しくシェア争いを展開するソフトバンク、NTTドコモ、KDDI。
3社のCMを並べて見ると、あることに気付きます。3つに共通する点がある、と。それは、人々の関心を惹きつける「場面設定の意図的な不自然さ」です。
その代表格は、言わずもがな、ソフトバンクの白戸家。犬の父がぺらぺらしゃべる「あり得ない」設定。その「不自然さ」が徹底しているから、むしろ違和感を感じない。ああそういう架空のお話なのね、とこっちもお芝居を見るようにして楽しんでいます。
ドコモのCMもしかり。渡辺謙がスマホになってしゃべるという、やはり「あり得ない」話。だから、違和感も残りません。
ところが。KDDI・au携帯のCMだけは、目にするたびにどこかひっかかり、妙な違和感が残ってしまうのです。私だけでしょうか?
auの「あたらしい自由」を伝えるCMシリーズは、井川遥、伊勢谷友介、剛力彩芽が出演し、スマホの選び方などを携帯電話でやりとり。その合間に、突然「巨人の星」の星飛雄馬の顔がインサートされ、『俺は(スマホを)選べない!子供の頃から野球だけだ!』と涙。このCMもやはり「あり得ない」設定です。
これが若い世代にはウケているとか。「スポ根アニメを、ひっくり返した」斬新な手法、と映るようです。しかし。一方で「巨人の星をナメている」「原作者・梶原一騎が見たら怒るのと違う?」といった声も聞かれる。
このCMでは星飛雄馬を「不自由の象徴として」描くとauの公式なリリースにありました。それはちょっと違うんじゃない? 私の違和感の出所がはっきりしたような気がしました。
「巨人の星」はご存じのように、単なる「スポ根」ではありません。父・一徹からスパルタ教育を受け、飛雄馬は野球の才能を開花させていく。厳しい練習はたしかに「不自由」かもしれません。しかしその「不自由」は、結果として魔球を投げるという「絶対的な自由」を手に入れる手段だったのです。日本の高度成長期、社会と個人が試練を乗り越え成長していく姿を投影した、サクセスストーリー。その星飛雄馬が、はたして「不自由の象徴」でしょうか。
ひとつのことに本気で打ちこみ、汗水を垂らして必死に努力する。そうした時間を、人は「私は不自由だ」と感じるでしょうか。
「巨人の星」に人生を重ね合わせてきた中年世代には、「ちょっとした思いつき」でおもしろ可笑しく使われる星飛雄馬像に、「違和感」を抱く人もいるのではないでしょうか。
人々の注目を惹きつけるための「あり得ない」設定。使い方によっては若者の関心を集めても、中高年からは反発される「両刃の剣」になるのです。