福島・南相馬に原発事故伝承館オープン、57歳の写真家が伝えたいのは「過去を見つめること」

東京電力福島第1原発事故を題材にしたアート作品を集めた美術館「おれたちの伝承館」が、福島県南相馬市小高区にある。東京都の写真家中筋(なかすじ)純さん(57)が7月に開設し、事故と向き合い続けてきたアーティストたちの作品を紹介。「アートによる伝承」が静かに評判を呼んでいる。(福島総局・東野滋)

「未来志向」の県立施設に違和感

 入り口に飾られたのは、放射能汚染で近寄れない桜並木の写真。避難できず牛舎に残され、柱をかじりながら餓死した子牛を模した立体作品が異彩を放つ。見上げると、黄色と群青の大画面に動物や魚が踊る天井画に吸い込まれそうだ。

 美術館は倉庫だった建物を除染、改装して7月12日にオープンした。小高区の避難指示が2016年に解除された日に当たる。

 中筋さんが本格的に福島に通い始めたのは13年。許可を得て無人の被災地に入り、時が止まったままの風景を撮った。同時に取り組んだのがアートによる伝承だった。現実を直視するつらさが写真より薄れ、作家の思いやメッセージへの想像力が働く。

 17年から作品展「もやい展」を東京などで開きながら、常設の展示施設を構想してきた。美術館では、当時から関わるアーティストを中心に21人の作品約80点を展示する。

 館の名称に入れた「おれ」は、地域の高齢者が男女問わず使う一人称。県立の東日本大震災・原子力災害伝承館(双葉町)を意識した。「復興後の新しい街、新産業が強調され、未来志向の展示だった。原発事故は過去の出来事とでも言うように」。中筋さんは違和感を語り、こう続ける。

 「『おれたち』はWe、つまり民(たみ)の目線。『伝承館』とは補い合う存在として、アートで心を揺さぶり、原発事故と福島のことを深く考える場所にしたい」

 現在の活動のきっかけとなったのは、07年に訪れた旧ソ連のチェルノブイリ原発周辺の撮影だった。ゴーストタウンと化した街に衝撃を受けた。「人の営みが一瞬にして断ち切られる。見えない放射能に強制終了される」。原発事故の恐ろしさを知ってほしいと写真集を出し、写真展も開いた。

 反面、自身もどこかで「安全神話」にとらわれていた。「ソ連の原発だから事故が起きた。日本の科学技術なら大丈夫」と。12年7カ月前のあの日、幻想はあっけなく打ち砕かれた。

 中筋さんは9月下旬、来館した福島大生約30人の前に立った。壁には「未来」の2文字。かつて双葉町にあった原子力PR看板の標語「原子力明るい未来のエネルギー」の一部をレプリカにした作品だ。

 ナチスの人道犯罪を直視し、歴史的責任を受け止めるよう国民に訴えたワイツゼッカー元ドイツ大統領の演説を引き、大学生に語りかけた。「『過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる』。もちろん未来にもだ。過去を見詰め、検証すること抜きに本当の明るい未来は描けない」

 [メ モ] 開館時間は午前11時~午後5時半(最終入館午後5時)。入館無料。11月26日まで金―日祝日に開館し、以降は不定期で開く。運営費の支援を募っている。連絡先は2021moyai@gmail.com

「原発事故が問いかけているものを考えて」 中筋純さん

 東京電力福島第1原発事故と向き合う美術館「おれたちの伝承館」(南相馬市小高区)を運営する東京都の写真家中筋(なかすじ)純さん(56)は、チェルノブイリと福島という二つの被災地を撮り続けてきた。開設に至る経緯、アートによる伝承の狙いについて聞いた。(福島総局・東野滋)

 [なかすじ・じゅん] 66年和歌山市生まれ。東京外大卒。出版社勤務を経てフリーの写真家となる。写真集「流転チェルノブイリ2007―2014」、著書「コンセントの向こう側」など。

 ―2007年秋、チェルノブイリ原発から4キロほど離れた都市プリピャチを初めて訪れた。

 「雑誌の仕事をきっかけに軍艦島など産業遺構を撮るようになり、その延長で向かった。原発作業員ら5万人が避難し、廃虚となった街はレーニンの肖像画が残り、ソ連がフリーズしたまま。衝撃的だった。放射能という見えないものに恐れおののき、強制終了された」

 「地球が誕生して46億年。気が遠くなる時間をかけて地上の放射線が減衰し、生物が住める環境ができたのを、欲望のために地下からウランを掘り出した人類が原発事故で振り出しに戻してしまった。文明とは何かを考えざるを得なかった。原発とは人類の無限の欲望の権化であり、無限そのものへの欲望の権化だ」

 ―「おれたちの伝承館」にも、チェルノブイリ周辺の立ち入り禁止区域で撮影した農家の女性の写真を展示した。

 「原発作業員ら都市住民は避難する一方、森の恵みや泉の水と共に暮らしていた人たちは故郷が恋しくて戻ってしまう。自然の循環の中で生きていくたくましい人間の強さと、崩れ落ちた原子炉の対比。どちらの生き方を選ぶべきなのか、問われたように思った」

 ―福島県では13年に浪江町に入り、本格的に撮影を始めた。

 「東京五輪の開催が決まり、お祭り騒ぎの中で『原発事故を記録しなければ忘れ去られ、なかったことにされる』と直感した」

 「立ち入りを許可された際、町の担当者から『町のことをきっちり記録してくれ』という当時の馬場有町長(故人)の言葉を伝えられた。町長は復興とともに町が消されてしまうと直感したのではないか。現に今、事故前にあった建物は次々と解体されている」

 「ささやかな暮らしの記憶が生きていく上で貴重品だということを、原発事故は如実に教えてくれた。福島に来て地域の人と酒を飲んでいると、みんなが昔の街並みの思い出話をする。『飲んだ後は必ず○○のラーメンだよな』みたいに、小さな飲み屋街の光景でもいとおしくてたまらないことが伝わってくる」

 ―原発事故がテーマの作品展「もやい展」を17年から開催してきた。なぜアートによる伝承なのか。

 「写真はリアリティーを強烈に伝えるが、見たくない人はすぐに目をそらしてしまう。アートなら入ってきやすい。人のフック(引っかかり)はそれぞれ。多様な表現を通し、福島からのメッセージを各人がキャッチしてくれるといい」

 「水俣病で分断された地域のつながりを結び直す運動『もやい直し』から言葉をもらった。福島でも、賠償金の問題などで変えられた人々の関係をもう一度再生したい。アーティスト一人一人の孤軍奮闘ではなく、表現を束ねて大きな力にしていこうと考えた」

 「当事者以外が伝える努力、リレーが重要だ。水俣病の場合は石牟礼道子さんがいた。彼女のルポや小説、詩など重層的な表現活動が水俣の伝承の背骨となっているのがヒントになる」

 ―福島第1原発で処理水の海洋放出が始まった。

 「中国や香港の輸入停止により、日本の水産物輸出の被害が1600億円になるからといって『国民一人当たり1600円分を食べれば解決』みたいな論調がある。少し違うのではないか。お金の問題、そろばんだけの問題にすり替えていいのだろうか。森羅万象にリスクをもたらす原子力について、もう一度考えなさいと問いかけたのが原発事故だったはずだ」

 「脱原発を求める声は多かったのに、燃料費高騰を受けて世論はあっという間に原発再稼働を容認するようになった。原発の問題を毎日意識し続けるのはしんどいが、暮らしの片隅に引っかかりを残しておくことで、政府や電力会社のロジックに簡単には流されなくなるのではないか」

 ―開館から3カ月。来館者は約1000人に上る。

 「原発に賛成か反対かを迫るのではなく、アートを取っかかりとして原発事故が何を問いかけているのかを深く考えようと訴えたい。美術界で無名の作家の作品もある。原発事故後に突き動かされるように表現を始めた人たちだ。民(たみ)の伝承館として、そんな作品も拾っていく。イベントを開いて地元の人が気軽に立ち寄れる場所にもしたい」

 「福島県双葉町にあった『原子力明るい未来のエネルギー』と書かれた看板が撤去されるのを撮影していた際、『未来』の部分だけがなかなか外れなかったのが印象的だった。福島では官民のプロジェクト名に『未来』が付くが、本当の明るい未来を考えるためには、過去を見詰めることが欠かせない。来館した若い世代が原発事故を知り、考えることで次の扉を開けていってほしい」

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