ジャニーズを50年以上追い続けた小菅宏氏が明かす「ジャニー氏の選択基準」「姉メリー氏の嘘」

創業者の故ジャニー喜多川氏の性加害問題が原因でジャニーズ事務所は17日をもって「SMILE―UP.」(スマイルアップ)に社名を変更した。50年以上にわたってジャニーズを取材し続け、19日に「新ドキュメントファイル ジャニーズ61年の暗黒史」(青志社)を出版した小菅宏氏が、絶対権力者のジャニー氏、姉のメリー喜多川氏の「嘘」と「真相」について明かした。 【写真】記録からも〝消される〟ジャニー喜多川氏  小菅氏が昨年、メリー氏の〝禁断の素顔〟を描いた「女帝 メリー喜多川」を出版したところ、ジャニーズ事務所から弁護士を通して出版差し止めの要求もあった。「メリーさんが亡くなった直後だったので、隠しておきたいことも、いろいろあったのでしょうね」  その小菅氏が今回、執筆したのがジャニーズ事務所の歴史だ。ジャニー氏の性加害問題で、17日には「ジャニーズ事務所」の屋号を下ろし、スマイルアップに社名変更した。  ジャニー氏について「9月7日に東山(紀之)が『鬼畜の所業』と言ったように、ジャニー氏の裏の顔は、それこそ悪魔と言ってもいいだろうが、そればっかりではない。表の顔は本当に優しいし、厳しい人でもあった」と振り返った。  ジャニー氏が「最上の楽しみ」としていたのが、毎日のように届く入所希望の少年たちの写真を眺めることだったという。「僕が一緒に行ったときには段ボール3つくらいあって、顔写真とかいっぱいあった。それこそ何千枚。ジャニー氏から『小菅さん、この中からチーム(グループ)を組むなら何人か選んでみて』って言われたので、美少年と呼べるようなのを4枚選んだんです。そしたら『ダメよ、これじゃ女の子の心は射止めない』って言われました。その時、この人はいろんなことを考えながらチームを組んだんだなって初めて思いました」  ジャニー氏が多くの人たちの中から未来のアイドルを選ぶ基準は5つほどあり、その中の一つが「黒目がちの二重まぶたであること」。他にも「踊りができること」などの条件があったという。  そうして自ら選んだ子供たちを毒牙にかけてきた。「ジャニー氏の少年愛は、僕もあとから分かったことですが、被害を訴えている人たちを見て総合すると、『比較的におとなしくて自己主張を必死に堪える、従順なタイプ』が多かったと思う」  ジャニー氏の〝鬼畜の所業〟について、姉の藤島メリー泰子氏は親しい人に「弟は病気なのよ」と話していた。「メリー氏はジャニー氏の性向を知っていたと思います。でも、言えなかったのでしょうね」(小菅氏)  メリー氏はフォーリーブスが解散してジャニーズ事務所の経営が苦しくなった時も、金策に走って支えた。「ウチの子」と呼んでいた所属タレントのことは必死で守るが、「ウチの子」でなくなると一気に対応は厳しくなる。その最たる例が、元SMAPで現オートレーサーの森且行だ。1996年に森はオートレーサー試験に合格し、SMAPを辞めるのだが、その際、メリー氏は「森などという人間はウチにはいない」という旨の発言をした。 「ジャニー氏は森をメインにチームを組んでいた。初めは売れなかったけど、木村(拓哉)がドラマで売れ、稲垣(吾郎)がバラエティーで売れて、ようやくこれからって時に辞めるとなったから、メリー氏は激怒したんだろうね」  ジャニー氏、メリー氏とも死去し、藤島ジュリー景子氏も一線から引いた。これからは東山が新会社の社長としてタレントたちを守っていく立場となった。  小菅氏は「ジャニー氏は『エンターテイナーだった人間が現役を辞めて芸能事務所で後輩を育てることはインポッシブル(不可能)だよ』って言っていた。なるほどねって思ったよ。それなのに東山が社長になるっていうのは皮肉めいたものがある」。  ジャニー一族から離れた新会社はこれからどうなっていくのだろうか?「俺が知っているジャニー喜多川という人物は独特の感性があった。だからジャニーズ事務所ができた。ジャニー喜多川がいない事務所は普通の芸能事務所になってしまうだろう」  ジャニー氏、メリー氏が築き上げた〝帝国〟は崩壊した。 ☆こすが・ひろし 作家。東京都出身。立教大学(在学中シナリオ研究所修了)卒業後、集英社に入社。週刊誌・月刊誌の編集を経て、1990年に独立。関連著書に「芸能をビッグビジネスに変えた男『ジャニー喜多川』の戦略と戦術」(講談社)、「アイドル帝国ジャニーズ50年の光芒」(宝島社)、「異能の男 ジャニー喜多川」(徳間書店)、「女帝 メリー喜多川」(青志社)など。

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