【全文公開】宝塚いじめ騒動、天海祐希も苦悩した“嫉妬の園” トップ合格、異例の出世で悪質な噂を流されたことも

 100年以上の歴史を持つ宝塚歌劇団からは、これまで数多くの名優が巣立っていった。その中でも一際輝きを放っているのは、天海祐希だろう。だが、宝塚でスターダムを駆け上った彼女もまた、在籍中はさまざまな“悪意”と対峙していた。

 昨年末に配信がスタートしたNetflixオリジナルの韓国ドラマ『ザ・グローリー 〜輝かしき復讐〜』は、高校を舞台にした壮絶ないじめの被害者であるヒロインが、十数年後に加害者たちに復讐を果たす物語だ。

 各国のNetflix内のドラマランキングで1位に輝いた同作は、衝撃的なストーリーと血なまぐさい暴力描写で話題を呼んだ。物語の冒頭、いじめのターゲットにされたヒロインは、「温度チェック」と称して、熱したヘアアイロンを腕に押し当てられるのだ。うめき声とともに、真っ赤にただれた皮膚は画面を通しても痛々しさに満ち、苦痛が充分に伝わってくる。

 もしかしたら、彼女もそうだったのかもしれない──その“問題作”が、配信から1年近く経ったいま脚光を浴びている理由は、「いじめ」と「ヘアアイロン」が結びつく騒動が、「宝塚歌劇団」という絢爛豪華な世界でも起きていたと報じられたからだった。

 兵庫県宝塚市にある宝塚大劇場では、11月23日まで予定されていた雪組公演が中止に。10月29日には、劇場内のチケットカウンターやレストラン、物販店舗なども一部を除いて休業することが発表された。9月30日に、宙組に所属する有愛きいさん(享年25)が自死した痛ましい出来事に、現在の大劇場周辺は、近隣住民が戸惑うほどに閑散としている。

 阪急電鉄とJR福知山線が乗り入れる宝塚駅から大劇場へと続く遊歩道は通称「花のみち」と呼ばれ、その遊歩道が、公演がある日に多くのファンでごった返す背景には、宝塚独特の習慣がある。

「楽屋入りする男役トップスターを熱心なファンたちがお見送りする『入り待ち』があるんです。公演ごとにジャンパーやスカーフ、小物などを揃えて、統制の取れた動きで“行ってらっしゃい”と声をかけます。トップスターは立ち止まって、笑顔で応えるのが恒例行事。公演中の入り待ちは、開演時間の2〜3時間前なので、周辺には何時間も前から人が集まるんです」(宝塚ファン)

 宝塚には、そうした独特な慣習が伝統として受け継がれてきた。もちろん、タカラジェンヌたちもそれを理解している。だからこそ、ステージを降りた後でも、タカラジェンヌとしての品格を重んじる暗黙のルール「すみれコード」が重視されてきたのだろう。だが、かつてそうした習わしに大なたを振るったトップスターがいた。天海祐希(56才)だ。天海は1993年から2年間、月組のトップスターを務めた。

「天海さんは楽屋入りの際、決まって帽子を目深にかぶり、大股でファンの間をすり抜けていきました。ファンからの歓声にも応えなかったため、ファンからは“あまりにも無愛想で、サービス精神がない”と言われたこともありました。でも、それは“劇場を離れればひとりの人間”という天海さんなりの考えがあったから。普段から、トレーナーやTシャツにジーンズというシンプルな服装を好み、すっぴんで自然体を通していたのも彼女ぐらいでした」(宝塚関係者)

「宝塚の最高傑作」と言われ、数々のステージの中央でスポットライトを浴びてきた天海。一方で、時に「異端児」とされ、「いじめ」の標的になったこともあった。しかし、天海自身は公の場で宝塚時代のことをあまり語ってこなかった。

「天海さんは、過去の苦労話をすることをあまり好まないんです。大変だったことや納得がいかなかったことでも、自分の中で整理がついていれば、わざわざ話さなくていいという考え方なんです。苦しい記憶であっても、いまとなっては自分を形作る思い出の1つだという思い。それだけ、宝塚時代を大事にしているのでしょう。だから、軽々に話したくないという気持ちが強いんだと思います」(演劇関係者)

「1人だけをいじめないで」

 東京の下町生まれの天海は、中学生の頃には、すでに長身で周囲の目を引く存在だった。しかし、当時の天海にとっては、その身長がコンプレックスだった。

「これ以上背が伸びないように、重い物をずっと持っていたり、頭の上に載せたりしていたそうです。その後のタカラジェンヌとしての大成をその長身が支えたというのは、少し皮肉ですよね」(別の演劇関係者)

 天海の意識を変えたのは、中学校の教師だった。

「宝塚にいけば、あなたのその身長が生かせるわよ」

 元来、歌や踊りが好きだった天海に、タカラジェンヌという未来が浮かび上がった。ただ、多くのタカラジェンヌのように、幼少からバレエや日本舞踊、歌の英才教育を受けたわけではなく、バレエを始めたのも高校1年生のときだ。

「高1の冬には、宝塚音楽学校を受験する準備が整っていて本人もそのつもりでいたんです。でも、バレエ講師に『合格はする。でもいまの技術では入学してから苦労する』と止められて、受験を1年先送りしたそうです」(前出・別の演劇関係者)

 その間、「天海と芸能界」の距離が一気に近づく事態も起きていた。街中で声をかけられ、資生堂のPR誌『花椿』の表紙を飾ったのだ。高校生にして、当時では考えられない10万円もの謝礼を受け取り、モデル事務所から仕事のオファーが届いていたほどだったという。モデル業に傾きかけたこともあったが、両親の説得もあり、高校2年生の冬に満を持して音楽学校を受験。18倍という競争率をくぐり抜けた。

「レオタード姿で試験会場に入ってきたとき、審査員が全員息をのんだ。審査員の1人が、“お父さんお母さん、よくぞこの子を産んでくれた!”と言ったというのは語り草になっています」(前出・別の演劇関係者)

 同期42人の中で、天海はトップ合格。ここから、天海の宝塚での日々が幕を開けることになった。2年制の音楽学校では、上級生が「本科生」、下級生は「予科生」と呼ばれる。本科生は、予科生の指導係だ。音楽学校では合格時の成績上位4名が、その同期の中で「委員」という役職につく。予科生に甘さが見られると、叱られ役はその委員だった。

 当時の音楽学校の生活は、軍隊並みの厳しさだったという。起床は4時半、早朝6時過ぎから8時過ぎまでは、音楽学校特有の掃除の時間だった。綿棒や筆まで使って、教室から廊下、校内の至るところのすみずみまでほこりを取り除く。それでも残ってしまったほこりを見つけられ「これなあに?」と先輩からの嫌みな言葉が飛んだ。

《「ほこりです」とも言えないから、謝るしかないんです。口答えも、反論もできないんです》

 宝塚在籍時の1994年、天海は雑誌のインタビューでそう話していた。ハードなのは掃除だけではない。休みは日曜日だけで、毎日、日本舞踊に演劇にバレエにタップの稽古が続く。「鼓笛行進」といって、1時間ひたすら行進するカリキュラムもあったという。出来が悪ければ、容赦なく本科生からの厳しい声が飛んだ。

「天海さんを支えたのは、“高校を中退してきたのに、辞められない”という反骨精神でした。送り出してくれた両親に面目が立たない。そういう価値観が彼女の原動力になっていたのでしょう」(前出・演劇関係者)

 どれだけつらくても黙々と日々の稽古に耐えていた天海だが、上級生に対し、怒りを露わにしたことがあった。もはや指導とは言えない「いじめ」を目撃したときだ。

「同期の1人が、本科生からいじめを受けたことがあったんです。そのとき天海さんは“1人だけをいじめないでください”と憤慨した。理不尽な理由で同期が課せられたトイレ掃除を、“私も一緒にやります”と買って出たこともあったそうです。

 そうした上下関係を見てきたからでしょうね。天海さんが本科生になったときには“夢を見せる存在である宝塚が、こんな規律に縛られていてはいけない”と、リーダーシップをとってルール改革をしたそうです」(前出・別の演劇関係者)

「いくらかかったんですか?」

 現在、宝塚全体を揺るがす有愛さんの自死の背景には、歌劇団内部にはびこるいじめ体質があったと囁かれている。今年2月には、『週刊文春』が、宙組所属の娘役・天彩峰里がヘアアイロンを押し当てて後輩の額をやけどさせたなどとする「いじめ疑惑」を報じた。被害者の「Aさん」とされたのが有愛さんだった。別の宝塚関係者が話す。

「有愛さんはこのやけど騒動当時“大ごとにしたくない”という姿勢でした。しかし記事が出たことで、有愛さんが“週刊誌にリークした犯人”と噂されるようになっていた。それが、彼女を二重に苦しめました」(現在、第三者チームによるヒアリングが行われているが、宝塚は結果の公表時期は「現時点では未定」と回答した)

 天海もまた、陰湿な噂話に苦しめられたひとりだ。音楽学校を卒業し、月組に配属された天海は、それからわずか半年ほどで、入団7年目までのタカラジェンヌで公演を行う「新人公演」で主演に抜擢された。端的に言えば、6年分の先輩を追い抜いたことになる。

「入団1年目の主演抜擢は当時の歌劇団80年の歴史の中で初の快挙でした。歌劇団幹部からは、とにかく天海を大型男役として早く大成させるように、経験を積ませろと号令が出ていたそうです。もちろん、天海さんに実力があったことは言うまでもありません」(前出・演劇関係者)

 だが、抜擢された天海に羨望と嫉妬の視線が向けられるようになった。

「『新人公演の主役を、カネで買った』という噂が流れたんです。それを信じた知り合いが、天海さんに直接“いくらかかったんですか?”と尋ねたこともあったそうです。

 ほかにも『受験をせずスカウトだった』とか『5年でトップにするという密約で入った』『宝塚から契約金をもらった』といったものもあった。音楽学校の入学前に、一度モデルを務めたことから、そうした話になったのかもしれません。天海さんのそれまでの努力すべてをなかったことにされるようなものでした」(前出・演劇関係者)

 公演で身につける衣装がなくなったこともあったという。

「それでも、天海さん自身は明らかに自分に敵意を向けている人とも、コミュニケーションを取ろうとしたんです。素っ気なくされても、どんどん話しかけていった。ただ、そうした努力にまで“鈍感だ”“ヘラヘラしている”という声が湧いた。根も葉もない噂が広まっていく歌劇団に、天海さんが絶望を覚えたことは想像に難くありません」(前出・別の演劇関係者)

 その後、天海は入団7年目の1993年に、月組トップスターに就任。これもまた、異例の早さだった。だが、天海がステップアップすればするほど、悪意ある言葉が向けられた。「超豪華億ションに住んでいる」「ファンクラブの幹部を呼びつけて、夜中に洗濯をさせていた」といった噂話まであった。「宝塚にいるから噂を立てられる」と、退団を考えたことも一度や二度ではなかったという。

 前述したように、特に退団後の天海は、宝塚時代への言及を極力控えている。「『女の世界』だから、いじめや嫉妬が蔓延する」と見られることを嫌ってのことだ。一方で、在籍時には、天海の苦しみの一端が見えたこともあった。

 歌劇団が発行する月刊誌『歌劇』(1995年2月号)に、天海はコラムを寄せている。「いま、気になっていることを書いてほしい」という依頼に彼女が選んだ題材は、1994年11月末にいじめを苦に自殺したある男子中学生のことだった。

《最近、いじめを苦にした自殺が多い事に心が痛んでならない。きっと、その毎日の中では、小さな心で解決しきれなかったこともあったでしょうね……。(中略)人が大勢いれば、全員が同じという事はないし、立場の弱い人もいれば強い人もいる。だから少しでも経験をつんでいる人がそうでない人を助けてあげられる世の中になればいいなあと思います》

 はるか30年近く前に、「伝説的タカラジェンヌ」が残した言葉は空虚に霧散し、「現役タカラジェンヌの自死」という悲劇を招いてしまった。

※女性セブン2023年11月16日号

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