静岡県の川勝知事は「南アルプスの自然環境保全」を理由にリニア妨害を続けている。ジャーナリストの小林一哉さんは「南アルプスは増え続けるシカによって多様な植生が現在進行形で失われている。それは放置しているのに、JRだけに文句をつけるのは道理がまるで通らない」という――。
■「環境への影響を事前予測しろ」と無理難題を押し付け
リニア中央新幹線工事が南アルプスの自然環境に与える影響について、国の有識者会議は、影響を随時見極めながら工事を進めるべきだと結論付けた。ところが静岡県の川勝平太知事は、事業者のJR東海に工事による自然環境変化を事前にすべて予測するよう求めている。
南アルプスの現状を目の当たりにすれば、そんな甘いことを言えるはずもない。
静岡県の環境行政トップの川勝知事は実態を何も知らずに、JR東海だけに厳しい物言いをするが、実際は、ブーメランのようにすべて自分のところに返ってくる。
一体、南アルプスで何が起きているのか?
■ニホンジカの食害についてはスルー
南アルプスの自然環境を語る際に外せないのが、増え続ける日本固有種のニホンジカ(ホンシュウジカ)の問題である。
リニア工事に伴い、環境省に絶滅危惧種などに指定されている重要植物の移植、播種(はしゅ)を実施している南アルプスの地域で、15種のうち9種で生育数が減少していることが、静岡市が11月15日に発表した2022年度調査結果で明らかになった。
この重要植物の移植、播種は、JR東海が作業員宿舎建設などのリニア準備工事に伴う環境改変に伴って、2017、18年に従来とほぼ同じ生育環境をつくった上で実施している。
静岡市の調査はそれらの生育状況を踏まえ、自然環境の変化を把握するために行われた。
今回の調査結果から静岡市は、植物の生育数減少は天候などの自然環境の変化だけでなく、ニホンジカの食害による影響が非常に大きいと推測している。
ニホンジカが南アルプスの高山植物を食べつくしてしまった状況は、環境省作成のパンフレット「シカが日本の自然を食べつくす」などで明らかになっている。
またニホンジカの急増で、南アルプスのシンボルであり、国の特別天然記念物ライチョウがエサとなる植生を失い、急減したとの報告が出されている。
高山植物を食べつくしたニホンジカは餌を求めて縄張りを拡大し、リニア工事の基地となる3カ所の作業員宿舎や、非常口など標高約1000メートル前後の南アルプスの森林等でも繁殖活動を行っていると専門家は見ている。
南アルプスの生態系に強い懸念を示す川勝知事だが、静岡県は増え続けるニホンジカの生息数はじめ、高山植物以外のニホンジカによる食害被害の状況について全く把握できていない。
■「生態系保全は責務だ」という主張はハリボテ
川勝知事は11月9日の会見をはじめさまざまな機会で、「南アルプスの生態系を保全するのは国際的な責務である。なぜなら、ユネスコエコパークに登録されているからだ」など理念的な発言を繰り返し、JR東海に自然環境変化の事前予測を求めている。
リニア工事の影響範囲だけを取っても、事前予測するためには具体的な現状がわからなければ、JR東海は手を打ちようがない。実際の南アルプスはニホンジカの食害によって、数年で大きな変化を強いられている。
つまり、増え続けるニホンジカの自然環境への影響をきちんと把握できていない状況の中で、静岡県は、事業者のJR東海に生態系への影響の事前予測を押しつけている。これでは、何らの説得力もない。
南アルプスの自然環境保全は、国立公園地域を管轄する環境省とともに、山小屋や登山道など国立公園地域の管理を受け持つ静岡県に責任と役割がある。
川勝知事は南アルプスの現状を全く承知しないで、南アルプスの自然環境保全の責任をJR東海に押しつけ、言い掛かりをつけているに過ぎない。
ここでも“裸の王様”川勝知事の無責任なデタラメだけがはっきりと見える。
■南アルプスのお花畑はシカに食べつくされてしまった
南アルプスは、数多くの固有種、遺伝種が見られ、植物相が多様であり、樹林帯が垂直分布し、一体性のある地域と高く評価されている。
しかし、南アルプスの多様な自然環境はニホンジカの食害によって、大きく変わってしまった。
環境省によると、1979年夏には見事なお花畑が広がっていたが、2005年夏には草原となってしまい、2010年夏にはとうとう草原も消え、石ころが目立つ状態となった。
まさに、ニホンジカにすべて食べつくされてしまった状態であり、多様な植物相にとって、最大の危機状況にあると言える。
南アルプスでは、リニア工事着工にかかわらず、生態系の深刻な被害に直面しているのだ。
■南アルプスはシカの食害対策が追い付いていない
現在、静岡県、静岡市は高山植物が残されている地域などで、高校生ボランティアらの協力を得て、防鹿柵の設置を行っている。
環境省の推計によると、ニホンジカは2019年現在、全国で約260万頭が生息し、毎年約60万頭が捕獲されている。環境省は本年度末までに約152万頭までに減らす計画を立てている。
ただどんなに捕獲をしてもニホンジカが増加傾向にあるのは、反芻胃と呼ばれる4つの胃を持ち、イノシシのような単胃動物が消化できない繊維や細胞壁なども分解してしまう強い胃を持っているからだ。つまり有毒物質を含まない植物であれば、何でも食べてしまうのだ。
イノシシ、サル、クマは人間と同じ単胃動物だから、消化が容易な植物や動物しか食べない。イノシシやサルは畑の作物などを荒らす害獣だが、ニホンジカは樹皮などすべての植物を食いつくす自然環境の“破壊者”である。
静岡県がニホンジカ被害の対策を行っているのは、伊豆と富士山麓地域のみである。両地域には現在約7万頭が生息していると県は推計する。
南アルプス地域や天竜川上流などにも数多くのニホンジカが生息するが、対応はできていない。
伊豆エリアなどのニホンジカはシイタケ、ミカン、ワサビなどの農園を荒らす害獣だが、南アルプスでは高山植物を食べてしまっても県民生活への影響はないからだ。
お花畑を形成する高山植物の被害はわかっても、高度の低い樹林帯などでの植物被害などは全くわからない状況である。
■「シカの食害も含めて自然の摂理」と捉える専門家もいる
明治期以前、ニホンオオカミが動物界の食物連鎖の頂点にいたが、人間によって絶滅させられた後、ニホンジカの天敵は人間以外いなくなった。
また2006年まで続いたメスジカの禁猟政策によって、ニホンジカが急増してしまった。
専門家の間では、ニホンジカの増加も自然環境の変化の一部と受け止め、何らの対応も必要ないとする考え方もある。
環境省パンフレットには「シカは植物を食べる日本の在来種で、全国に分布を拡大し個体数が増加、シカが増えることは良いことと思うかもしれないが」と断り書きをした上で、「全国で生態系や農林業に及ぼす被害は深刻な状況になっている」と徹底的に駆除することの理由を説明している。
つまり、「シカが増えることは良い」と思う人間もおり、生物多様性も人間の都合によってさまざま変わる。生物多様性の考え方は非常に難しい。
だから静岡県は、南アルプスの重要な生態系のうちの1つであるニホンジカ保全について何らの指針も示すことができない。
■河川改修やダム建設でヤマトイワナのすみかを奪ってきた
県生物多様性専門部会で議論してきた大井川の在来種ヤマトイワナについては、11月8日公開のプレジデントオンライン(リニア工事とは無関係なのに「絶滅寸前の川魚を守れ」と難癖…またも意味不明な主張を繰り返す川勝知事の末路)で詳細に紹介したが、絶滅危惧に追い込んだのはすべて人間の活動である。
繁殖力の強いニッコウイワナを放流したのは、ヤマトイワナの減少に伴い減った釣り人を漁協が誘致するためだった。それ以前に行政による河川改修や、多数の電力ダムの建設によって、ヤマトイワナの好む自然環境はすっかり失われてしまった。
だから、「ヤマトイワナを是が非でも守れ」とJR東海に迫るのは不思議な話である。農業、林業を守るためにニホンジカ駆除が正当であると考えるならば、「ヤマトイワナを守れ」は説得力に欠ける。
自然環境保全を名目に、リニア計画を静岡県でストップさせたのでは、地元井川地区だけでなく、沿線住民への経済的な影響も大きい。
ところが、自然環境保全でも川勝知事の反リニアはとどまることがない。
リニア工事を巡る生態系への影響を議論する国の有識者会議が結論をまとめることに猛反発して、「大井川上流部の沢に生息する水生生物への影響に関する議論が不十分」とする意見書を国交省に送っている。
■都合の悪いことから逃げる県の専門部会に存在意義はない
1年以上にわたって議論してきた有識者会議は、自然環境の大幅な変化などで当初の予測と異なる状況が生じることを踏まえ、特に不確実性の高いものは工事を進めながら、随時見直す管理手法を取ることを報告書案で示している。
つまり、JR東海のリニア工事着工を容認した上で、JR東海がリニア工事を行いながら、生態系への影響を評価判断して対応することを認めている。これは非常に合理的である。
ところが、反リニアに徹する川勝知事は、南アルプスの自然環境保全を盾に、JR東海の工事着工を何としても阻止したいから、有識者会議の結論を認めない魂胆である。
静岡県の生物多様性専門部会に議論を戻して、従来通りにJR東海に無理難題を突きつけるシナリオがはっきりと見える。
はっきり言って、県生物多様性専門部会の存在意義には疑問を呈さざるを得ない。
生物多様性とは、「バイオダイバーシティ」の造語である。「生物のにぎわい」といった意味であり、ヤマトイワナだけを保全してニッコウイワナ、混雑種を駆逐するという考えはない。すべて人々の生活と大きく関係する。
県専門部会は増え続けるニホンジカによる植生への影響などは議論しないどころか、避けている。つまり、南アルプスの現状を理解しようとしないのだ。
川勝知事の意向通りに、自然環境保全を名目にしてリニア工事着工を妨害する県生物多様性専門部会は即刻、解体すべきである。
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小林 一哉(こばやし・かずや)
ジャーナリスト
ウェブ静岡経済新聞、雑誌静岡人編集長。リニアなど主に静岡県の問題を追っている。著書に『食考 浜名湖の恵み』『静岡県で大往生しよう』『ふじの国の修行僧』(いずれも静岡新聞社)、『世界でいちばん良い医者で出会う「患者学」』(河出書房新社)、『家康、真骨頂 狸おやじのすすめ』(平凡社)、『知事失格 リニアを遅らせた川勝平太「命の水」の嘘』(飛鳥新社)などがある。
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(ジャーナリスト 小林 一哉)