四ツ谷用水

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仙台の城下町は広瀬川の河岸段丘の上に位置し水が利用しにくい地形であったことから、伊達政宗の命で広瀬川から水をひく水路が作られ、生活用水や産業用水として市民の生活を支えていました。
明治以降、暗渠化・埋設などで姿を消していきましたが、杜の都の礎として重要な存在であった四ツ谷用水を広く知っていただき、その記憶を将来の世代に継承できるよう、各種イベントや展示等を実施しています。

四ツ谷用水とは

慶長6年(1601年)伊達政宗公は自然の要害である青葉山に築城を開始すると共に、その眼前にある広瀬川対岸の地に城下町の建設に着手しました。しかしながらこの地は川の河道変遷によって形成された河岸段丘地であり、高い崖が人々との関わりを阻み、川から町に直接水を運ぶことを不可能にしていました。そこで、家臣川村孫兵衛重吉※1に命じて作らせた人工河川(用水路)が「四ツ谷用水」です。広瀬川を上流の郷六村までさかのぼり、ここに堰を設けて取水し、隧道※2や掛け樋※3で山谷を越え、八幡町の西方で開渠※4として城下町に流しました。本流は八幡町から北六番丁を東に流れ宮町を過ぎた辺りで梅田川に注ぎ下流域の数百町歩の水田を潤しました。この本流から覚性院丁・木町・通町の三か所で支流が分岐し、さらに多くの枝流が分流して市中の要所を縦横に巡らせ、その総延長は約44kmに及びました。
それは地下水を補給して井戸水を供給すると共に、市内の消防用水として重要な役割を果たしました。また炊事・洗濯の生活排水路としても利用され、上流部では水車運転や染物などの産業面にも用いられ、夏の道路の散水、冬の雪捨場として役立つ一方、市内に樹木を育てるなど潤いある町をつくりだしていました。

明治維新以後、道路を改修する際に、道路中央の水路(四ツ谷用水)を埋め、付け替えが行われましたが、計画的な整備ではなかったため降水の都度、雨水と汚水が流入し次第に放置しえない状態となりました。そこで明治31年(1898年)に始まった下水道の整備は用水路の暗渠※5化・埋め立てを進めることとなり、四ツ谷用水は市民の目からその姿を消していきました。そして用水路として最後に残った本流も昭和30年代半ばの県工業用水道設置に伴って函渠※6化されました。現在では、それでもわずかに残された貴重な遺構とその風景により、往時の四ツ谷用水を偲ぶことが出来ます。                  

※1 天正3年(1575年)、長門国阿武(現山口県萩市)に生まれる。毛利家に仕えていたが、慶長6年(1601年)伊達家に召し抱えられた。北上川から石巻港に至る運河整備と石巻の築港工事を行い、四ツ谷用水や貞山堀を建設した。慶安元年(1648年)没。

※2 トンネル
※3 竹や木を用いた水路橋
※4 上側が空いた水路
※5 地下に埋設された水路
※6 函型(箱型)の水路
(説明出典:四ツ谷用水の周知と継承のための提言(平成25年3月) 別紙1)

① 四ツ谷堰にて広瀬川から取水
(青葉区郷六)

② 開口部
(青葉区郷六)

③ 本流跡
(大崎八幡宮太鼓橋下)

④ 洗い場跡
(青葉区八幡2丁目)

⑤ 支倉堀跡
(青葉区星稜町)

⑥ 宝蔵院橋の放流口
(青葉区福沢町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

四ッ谷用水

四ツ谷用水(よつやようすい)は、宮城県仙台市に存在する用水路である。

四ツ谷堰ともいう。

解説[編集]

江戸時代に開削されたもので、本流と支流が仙台城城下町をくまなく流れ、生活用水や灌漑用水、排水に用いられた[1][2]。近代以降、支流は暗渠化されたり埋められたりして次第にその姿を消し、現在は暗渠化された本流が工業用水道として使用されている[3][4]

流路[編集]

四ツ谷用水の本流は郷六地区において広瀬川から取水され、潜穴を経て八幡町、北六番丁を東流する。本流は元々、宮町梅田川に注いでいたが[3]、現在、工業用水道としての水路はさらに東側へと続いている[4]。江戸時代には本流の流路は城下町の北部に当たり、そこから支流が分岐して城下町をくまなく流れた。四ツ谷用水が詳しく記入されている1692年(元禄5年)の「御城下町割絵図」、1724年(享保9年)の絵図をはじめ、1844年(天保15年)の「御街道並木道筋図」、1875年(明治8年)の宮城郡仙台町地引図などをもとにすると、「北三番丁掘下流部」を除いた用水の総延長は八幡町5丁目より下流部が約41キロメートル、これより上流の導入部が約3.2キロメートルで、合計約44キロメートルとなる[5]

広瀬川からの取水部の標高は約65メートル、梅田川への放流部の標高は約40メートルで、両者には約25メートルの高低差がある。この間の本流の延長は約7.2キロメートルである。全体を平均して見た場合、約3.5パーミルの勾配によって本流が流れるようになっていた[5]

『宮城町誌』によれば、四ツ谷堰の取水口に当たる地にはもともと4軒の民家があり、これから生じた四家の地名が四谷(四ツ谷)に転じ、堰の名前になったのだろうと推測している[6]。一方、佐藤昭典『利水・水運の都 – 仙台』は『宮城町誌』の説を紹介しつつも、針金沢、聖沢、鶏沢、へくり沢の四つの谷を木樋水道橋で越えて水路が建設されたことが四ツ谷堰の名前の由来であろうと推論を述べている[7]

また、城下町の南東を流れる「孫兵衛堀」という水路があった。これの水源は四ツ谷用水とは異なるものであるが、四ツ谷用水の末流が流れ込んでいたことから、孫兵衛堀が四ツ谷用水の一部と見られることもある[8]

歴史[編集]

四ツ谷用水の普請の記録が見られる文献史料として『後知行被下置御帳』(『仙台藩家臣録』)がある。これによれば、四ツ谷堰は四ツ谷堰普請奉行だった宇津志惣兵衛が1627年(寛永4年)から1629年(寛永6年)にかけて完成させたものであるという[9]。絵図に四ツ谷用水が現れるのは1664年(寛文4年)の「仙台城下絵図」が初出である。1691年または1692年(元禄4年)の「仙台城下五釐卦絵図」には、城下にくまなく流れる支流が描かれている。このことから四ツ谷用水は元禄の頃までにほぼ完成したのだろうと推測されている。宇津志惣兵衛の他には、川村重吉(孫兵衛)やその養子である川村元吉がこの水路の建設に関わったと考えられている[8]。郷六の取水部は、洪水時に流失したことがあり、当初の位置より800メートルほど上流に移った経緯がある。これによって水路の潜穴が1箇所増えて計4箇所になった[9]

四ツ谷用水は、城下町の生活用水や防火用水として用いられた。ただし、飲料水とはならず、洗い水などに利用されていたのだろうと考えられている。また、後の昭和30年代に行われた水路のコンクリート化で井戸が枯れたことから、かつて四ツ谷用水は地下水を涵養し、井戸の水位を押し上げていたと考えられている。同時に四ツ谷用水は排水路でもあった。生活排水もそうだが、当時の城下町周囲の湿地では水が湧き出ていて、この湧水の排水も水路の目的だったと考えられている。そして、この水は四ツ谷用水の下流域で灌漑用水として利用された。四ツ谷用水の水量は豊富で、城下町の北部で桜川と呼ばれたり、下流側の小田原村で平渡戸川と呼ばれたりして、天然の河川と誤解されることもあったらしい。また、生活排水が流された下流域の榴岡では四ツ谷用水は悪水堀とも呼ばれたが、生活排水によって富栄養化した水は農作物の生育に役立った[8][10][9]

四ツ谷用水が流れた、大町一二丁目、大町三四五丁目、新伝馬町、国分町肴町立町、二日町、本材木町、北材木町、柳町南町、北目町、北鍛冶町、南鍛冶町、田町、穀町、上染師町、南材木町は水下十八町と呼ばれた。これらは藩の役人の下で用水管理の責務を負わされ、用水路の掃除、清掃を行っていた。春と秋の合わせて2回、大掃除が行われ四ツ谷用水の汚泥が取り払われた[8]。また、寒い時期に水路に氷が張った場合は、これを割らなくてはならなかった。年末には四ツ谷用水の上に正月の調度品を売る仮設の店舗が設置され、賑わったという[10]。1822年(文政5年)四ツ谷用水に赤子の死骸が捨て流される事件があった。この頃は赤子養育仕法という法度があり、これが行き届いていないことによる出来事として仙台藩はこの事件を問題視した[11]

明治時代になると四ツ谷用水は不衛生な状態となった。この事は井戸水の水質に影響を与えた。1888年(明治21年)水質検査が行われた仙台区[12]の井戸5507本のうち、飲用に適している水を湛えていたのは131本だった[13]。仙台で上水道下水道の整備が行われるのはこの頃からである。生活用水として使われなくなった四ツ谷用水は、側溝化あるいは暗渠化された[13][3]。一方、灌漑用水としての利用は続いた。水不足の年だった1901年(明治34年)、原町の農民が四ツ谷用水を粘土張りで堰き止めたために、下流域の六郷七郷の農民が原町の農民を襲う事件が起きた[14]太平洋戦争中には、四ツ谷用水は空襲時における防火用水として着目され、改修を受けた[15]

2016年に「杜の都仙台の水環境を支える近世より継承された貴重な土木遺産」として、土木学会選奨土木遺産に選ばれる[16]

四ツ谷用水の暗渠化から見る伊達政宗の町づくり

仙台城の建設にあわせて、城下町が一から建設されました。
水害リスクが低い土地を選んだ代わりに、生活に必要な水を供給する水路の建設も必要になりました。

四ツ谷用水と伊達政宗の仙台城築城の関係とは

青葉山に仙台城を築くことを決めた伊達政宗は、同時に城下町の建設場所を広瀬川の河岸段丘(かがんだんきゅう)の上と定めました。

河岸段丘とは平坦面と崖が交互に現れる階段状の地形で、川に沿って形成されます。気候変動によって川の侵食作用の強さが変わり、谷底部に新たな谷がつくられることで段丘ができます。

川が流れるのは標高の低い崖の下となるので、段丘の上は洪水の被害を受けにくいのが長所です。実際、仙台城下町がつくられた段丘面から広瀬川の水面までは、約20mもの落差があります。

四ツ谷用水と伊達政宗の仙台城築城の関係とは

四ツ谷用水建設の経緯

問題となるのが、水の確保です。洗い物などに使う生活用水、田畑を潤す農業用水、火事を消し止める防火用水、水車を回す産業用水。人が生活するためには何かと水が必要ですが、河岸段丘の上には水がありません。

そこで政宗は、広瀬川の上流から水を引き、城下町じゅうに張りめぐらせた用水路に流すことにしました。この用水路を「四ツ谷用水」と呼びます。

四ツ谷用水の建設と概要

四ツ谷用水は、1627(寛永4)年に着工され、2年後にひとまず完成。全体が完成するのは元禄年間(1688~1704年)のことです。

城下町中心部から西に3kmほど離れた広瀬川の上流から水を分け、潜穴(トンネル)や掛樋(かけひ)を通しながら城下北部を東へ流し、梅田川に合流させました。この四ツ谷用水本流は、城下でも標高の高い段丘面上に通されています。そこから何本もの分流を設けて、城下町全体に水を行きわたらせました。

四ツ谷用水の建設と概要

四ツ谷用水の暗渠化と現在の姿

明治以降、近代的な上下水道の整備によって利用が減り、また自動車の走行のじゃまになるため暗渠化(水路にフタをすること)されました。流れが見えなくなっただけで、本流には今も変わらず水が流れ、工業用水として利用されています。

一部に流れが見える部分や、用水が利用されていた痕跡などが残ります。四ツ谷用水を感じられるスポットを回ってみましょう。

四ツ谷用水の暗渠化と現在の姿

四ツ谷用水を感じられるスポット①:四ツ谷堰(よつやぜき)

仙台市青葉区郷六にある四ツ谷用水の取水口。広瀬川を斜めに浅くせきとめて水を分けています。

四ツ谷用水を感じられるスポット②:宮城県工業用水道沈砂池(ちんさち)

四ツ谷用水唯一の開渠部分。

四ツ谷用水を感じられるスポット③:聖沢掛樋(ひじりざわかけひ)

沢の上に樋を渡して水を流しています。現在の樋はコンクリート製ですが、江戸時代には松の板でできていました。

四ツ谷用水を感じられるスポット④大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう)

かつて、入口にある太鼓橋の下に四ツ谷用水が流れていました。現在は暗渠になっています。

四ツ谷用水を感じられるスポット④大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう)

四ツ谷用水を感じられるスポット⑤:春日神社

参道を抜けたところに、炊事や洗濯をするための「洗い場」跡があります。水辺に下りる階段の痕跡が残っています。

四ツ谷用水を感じられるスポット⑥:支倉堀跡(はせくらほりあと)

本流と支流の結節点の跡。東北大学病院の敷地内にあります。

四ツ谷用水を感じられるスポット⑦:宝蔵院橋(ほうぞういんはし)

四ツ谷用水が梅田川に合流する地点にかかる橋。放流口から水が流れ込んでいるのが確認できます。

四ツ谷用水を感じられるスポット⑧:クリスロード・ハピナ名掛丁境界(ながけちょうきょうかい)

2つのアーケード街の境界部分の地面に、四ツ谷用水をモチーフにしたデザインが施されています。かつてクリスロードは町人の住む「新伝馬町」、ハピナ名掛丁は武士が住む「名掛丁」であり、町境に四ツ谷用水が流されていました。

四ツ谷用水を感じられるスポット⑨:壱弐参横丁(いろはよこちょう)

四ツ谷用水を流したことで城下町の地下に水が浸透し、そこかしこで湧き水が出るようになりました。壱弐参横丁には湧き水を汲み上げる井戸があり、今も現役で利用されています。

四ツ谷用水の往時の姿に思いを馳せよう

江戸時代、四ツ谷用水にはきれいな水が豊富に流れていました。要所には水門が設けられ、火事のときなど必要に応じて水量を調節しました。用水の清掃は藩の監督下で町民が行い、改修工事の際には町民も費用を分担するなど、官民が協力して維持にあたりました。

北六番丁を流れる用水の岸には桜並木が植わっていたため桜川と呼ばれ、自然の川と思われることもあったといいます。現在は暗渠化され、桜並木も残っていません。

町民の生活に溶け込んでいた四ツ谷用水。古地図を見ながら流路をたどり、往時の姿を想像するのもおもしろいものです。

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仙台の町名の秘密

仙台の町名には、「町」が付くものと「丁」が付くものがあります。読み方こそ同じですが、「町」は町人が住む区域、「丁」は武士が住む区域と、身分制度に基づいて明確に使い分けられていました。

SafeFrame Container

丁は下級武士の屋敷と上級武士の参勤時の屋敷で構成されます。町と丁の境は「丁切(ちょうぎり)」という木戸で区切られました。

「元(本)」や「新」、「南」や「北」が付く町名は、町の分割や移転にともなって改称されたものです。

町名や寺名のあとに「通」が付く町名は、その町や寺へ続く通りだったことを意味します。「小路」も同様です。藩政期には「通」や「小路」は道筋の名称でしたが、明治以降に土地から税金を徴収するようになり、一定の区域を表す名称となりました。

そのほか、東西に伸びる町を「縦町」、南北に伸びる町を「横町」といいます。道の両側に屋敷が配置された町は「両側町」、片平丁のように片側に屋敷が配置された町は「片側町」と呼ばれました。

仙台の町名の秘密
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