習近平体制が確立して以来、中国は超好戦的な外交姿勢を取り続けてきた。ここでは、ルポライター・安田峰俊氏の新刊『戦狼中国の対日外交』(文春新書)を一部抜粋して紹介。
かの国を長年ウォッチしてきた著者が、地を這うような取材によって追及した“対日工作の実態”とは……? 欧州のケースを通して、日本に差し迫りつつある危機を考える。
2016年6月、日本国内に設立された中国の地方公安局の出先機関「海外派出所」の開設セレモニーに中国大使館員(写真中央)が出席していた証拠写真。詳細については書籍『戦狼中国の海外工作』を参照。
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わが国でも水面下において、中国による国家主権の無視や、中国側の警察権力の介入やインテリジェンス活動が、他にも数多くおこなわれていることはほぼ確実だ。
では、仮に現在の状況を放置した場合、日本にはいかなる事態が出来するのか?
答えは欧州にある。話の舞台を移し、現地で進行している壮絶な実態を伝えていこう。
中国当局の嫌がらせの実態
「2022年後半から、中国当局の嫌がらせが一気にエスカレートしました。きっかけはこの年の6月4日、ベルリンで開かれた在外中国人の天安門事件追悼運動を取材したこと。集会中から中年の中国人男性が執拗に私を撮影し、帰路も尾行してきたんです。それから、私の住所などの個人情報や誹謗中傷がネットにばらまかれるようになりました」
2023年5月7日、40代の中国人記者である蘇雨桐は、ベルリン市内のカフェでそう話した。目鼻立ちの整った女性で、聞き取りやすい標準的な中国語を話す。
彼女はかつて北京のテレビ局でキャスターを務めていたが、高度経済成長が進むなかで社会矛盾が拡大した中国の現状に違和感を抱き民主活動家に転身。当時は現在と比べて自由な気風が強い胡錦涛政権の時代であり、蘇雨桐は河南省にある売血でHIV感染が蔓延した農村を支援したり、2008年に劉暁波を中心に出された知識人の民主化要求アピール『〇八憲章』に名を連ねたりと、当局の妨害を受けつつも活動を続けた。
だが、2010年に天安門事件当時の総理だった李鵬の日記の公開を図ったことで強力な弾圧を受け、香港に脱出。現地の著名な民主派知識人である李柱銘(マーティン・リー)の支援も受け、ドイツの放送局の中国語サイトの記者の仕事を得て、欧州に移住した。
いろいろな男性が訪ねてきて…
亡命後も中国当局による一定の圧迫は存在し続けていたというが、2022年6月から嫌がらせが極めて苛烈になった。この時点で、彼女はすでにドイツ国籍を持つ「ドイツ人」なのだが、そんなことはお構いなしだった。
「自宅に毎日、いろいろな男性が訪ねてきてインターホンを押すようになったんです。応対すると『君のサービスはいくらだ?』と尋ねてくる。彼らは私がセックスワーカーだと勘違いしてやってきた、買春客だったんです」
多くは白人男性だったという。蘇雨桐がなぜ自分の家を知ったのかを尋ねても、ほとんどの男は無言で立ち去った。彼女は混乱した。
「もちろん気持ちが悪いですよ。わけがわからず、もしかして私が入居する前の住民がセックスワーカーだったのかと思ったんです。しかし、家の表札を隠してみたところ、彼らの訪問はピタッと止まった。なので、彼らが『私』を訪ねていることがわかりました」
ちなみにドイツでは自宅に表札を掲げないと郵便物が届かないため、誰もが表札を出す。
合成ヌード写真がネット上に拡散
やがて訪問客の男性の一人から、コミュニケーションアプリのWhatsAppの性風俗コミュニティで書き込みを見たと教えられた。蘇雨桐の顔写真と自宅の住所が掲載された偽物の風俗広告が、何者かによってネット上にバラ撒かれていたのだ。
買春男たちの訪問は約半年間、彼女が引っ越すまで延々と続いた。携帯電話にもしばしば、ドイツ語で「価格」を問い合わせる着信があった。
さらに、自分の顔が合成されたヌード写真やポルノ動画、宛名に彼女の名前が書かれたセックスグッズやセクシーランジェリーの領収書といったフェイク画像がネット上にバラ撒かれた。ツイッター(現在は「X」)に「蘇雨桐の爛れた欲情」といったハンドル名の嫌がらせアカウントがいくつも作られ、下品な内容のメッセージが書き込まれた。
「ただの愉快犯ではありません」
ほどなく、中国出身でカナダ在住の女性民主活動家が、自分と同様の被害に遭っていることが判明する。一連の不気味な出来事は個人によるハラスメントではなく、中国当局からの攻撃だと思われた。
「他にも私の名義で、ベルリンをはじめロサンゼルスやイスタンブール、香港など世界各地の高級ホテルが勝手に予約され、『部屋に爆弾を仕掛けた』と現地の警察に虚偽のテロ通報をおこなう嫌がらせが繰り返されました。それで、各国の警察から電話が掛かってくるんです。高額な宿泊費をわざわざ支払って予約していたケースもありましたから、ただの愉快犯ではありません。資金力を持つ組織がおこなっている行動です」
蘇雨桐が電話番号を変えても、攻撃者はどこからともなく新しい番号を嗅ぎつけ、すぐに嫌がらせを再開してきた。彼女の職業はフリーランスの記者であり、外部の不特定多数の人物に連絡先をまったく教えないことは不可能だった。
「強姦して殺す」という脅迫も
2022年11月から、攻撃はさらに過激になった。
コミュニケーションアプリのテレグラムを通じて、より直接的な嫌がらせや脅迫を受けるようになったのだ。
「『殺手!!!!!』(殺し屋)というハンドルネームの人物から、見るに堪えない文章が大量に送られてくるようになりました」
彼女はスマートフォンを取り出し、会話内容を記録したスクリーンショットをいくつも見せてくれた。
「お前の写真でオナニーしてやった」
「強姦して殺す。俺がどれだけデカいかじっくり味わえ」
「仲間と一緒に輪姦してやる」
衝撃的だが、用いられている文言は信じられないほど品性に欠けている。
中国人には「よくある手法」
「ドイツの警察に通報したんですが、はじめは彼らも事情を理解してくれなかった。『中国国家がこんなに粗雑なことをやるわけがない。変態的なストーカーが個人的にやっているんじゃないですか?』と言われたんです。ニセの爆破予告ですとか、自分が受けているいろいろな被害を説明して、現在はもう理解してもらえたんですが」
中国の「工作」は、高級ホテルに大量のニセ予約を入れるために数十万円程度のカネをかけているものの、その内容は一般人がおこなう嫌がらせと変わらない。
「その通りです。彼らの行動はまったくレベルが高くない。でも、これは私が中国国内にいたときから見知っている国保のやり口と同じ。中国人にとってはよくある手法です」
通称「国保」とは、中国公安部の国内向けのインテリジェンス組織である国内安全保衛局(現・政治安全保衛局)のことだ。対象者への嫌がらせ工作や取調べ中の拷問も辞さない点で、戦前の日本の特高警察のイメージに近い組織である。
蘇雨桐のような在外華人に対する攻撃は、おそらく国保とは異なるセクションが担当しているはずだが、現場の工作手法に大きな差はないようだった。
コスパがいい嫌がらせ
蘇雨桐は「自分の考えですが」と前置きしてこう話す。
「スパイを専門的に養成して、他国に送り込んで工作させる作戦は非常にコストがかかります。でも、ゴロツキを雇って汚れ仕事をやらせれば、すごく安く上がる。ターゲットの名誉を毀損して疲弊させることが目的ならば、そのほうが割に合うのかもしれません」
ちなみに一昔前までの中国は、海外に逃亡した自国の反体制派をほとんど放置する姿勢を取ってきた。王丹やウアルカイシといった天安門事件のリーダーや、ゼロ年代までに海外に亡命した民主派の知識人などがそうである。
かつてユーチューブやXが普及していなかった時代、海外に脱出した言論人が中国国内に対して影響力を持ち続けることは困難であり、通常は活動が先細る。ゆえに当局の側にも、反体制分子を海外に追い出せば「上がり」という認識が事実上存在していた。汚職官僚(貪官)や経済犯も、海外に逃げた者にはほとんど手出しができなかった。
だが、2013年に習近平政権が成立すると、まずは国外に逃亡した汚職官僚に対して、親族を実質的な人質にとって帰国を強要するなど徹底的な追い込みをかける猟狐活動(キツネ狩り作戦)が開始された。
同じく海外に在住する反体制派に対しても、露骨な恫喝や分断工作がおこなわれるようになり、攻撃は徐々にエスカレートしていった。
蘇雨桐が受けた被害も、その一環であろうと思われた。
犯人の正体は…
ところで、彼女に対する嫌がらせ犯の素性はすでに明らかになっている。
犯人の正体は、なんと中国国内における「弱者」であった。
「名前はエルシン・エルキン(中国語では伊力森・艾尓肯:Yilisen Aierken)。新疆ウイグル自治区出身の、カザフ族の難民の男です」
新疆の少数民族問題は、1000万人以上の人口を持つウイグル族が注目されがちだ。しかし、同じテュルク系のムスリムである人口150万人ほどのカザフ族も同様の迫害を受けている。2018年には強制収容所行きを逃れたカザフ族の女性、サイラグル・サウトバイが海外に亡命し、弾圧の詳細な実態を暴露して国際ニュースになった。
蘇雨桐を脅迫したエルシンは、25歳前後の若者だった。彼の名前をインターネットで調べると、亡命後に報じられた西側メディアの記事がいくつも見つかる。
「おそらく生活苦から、中国側に買収された」
いわく、2019年に新疆を命がけで脱出してカザフスタン経由でウクライナまで逃げた話、亡命が受け入れられないことで中国に強制送還される恐怖を訴える話、それでも自由の地にやってきた喜びを口にして中国の体制を批判する話、コロナ禍による難民の困窮を伝える話──。
だが、2022年2月にロシア軍による侵攻を受けたウクライナを離れ、ポーランド国境まで逃げ延びたことを伝える報道を最後に、エルシンについて公の情報は途絶える。
それから数カ月後、彼が再び姿を見せたのはポーランドの西の隣国であるドイツだった。しかも、かつて決別したはずの中国当局の尖兵になり、反体制派の在外中国人に対する「殺し屋」として現れたのだった。
「それまでは私も、報道を見て気の毒な亡命者がいると思っていたんです。しかし、エルシンはおそらく生活苦から、中国側に買収された」
蘇雨桐は話す。ちなみに新疆では、少数民族に対する同化政策として中国語教育が盛んにおこなわれているため、若い世代であればカザフ族でも中国語を流暢に話せる。当然、テレグラムを使って脅迫メッセージを送ることもできる。
ちなみに、エルシンは蘇雨桐のほかに、オランダに住む21歳の亡命中国人活動家の王靖渝にも殺害予告を繰り返していた。エルシンは彼にこう言ったという。
「貴様(=王靖渝)を血祭りにあげて、蘇雨桐をレイプして殺せば、中国政府が俺をロシア経由で安全に故郷に送ってくれる。仕事の褒美として、故郷で結婚相手と自動車をあてがってやると言われたんだ」
黒幕の存在も明らかに
もっとも、過酷な亡命生活に耐えかねて当局の飼い犬になったエルシン自身も、精神的に不安定な状態にあるようだった。蘇雨桐は言う。
「ある夜、錯乱したエルシンがメッセージを送ってきた。麻薬を濫用しているらしく、精神的に消耗している印象でした。そこで彼を挑発して経済力を自慢させるよう仕向けたんです。すると『俺は生活に困っていない!』『中国共産党が俺に送ったカネだ!』と、なんとウェブマネーの受領画面のスクリーンショットを送信してきました」
保存した画像を見せてもらう。金額はUSDT建ての3432テザー(約52万円。USDTはレートが米ドルと連動した仮想通貨)で、受領の日付は2022年12月2日。振込み元はZhang Ran(張髯)という人物だった。
結果、この軽率な行動によって背後の命令者の存在が判明する。わざわざアシがつきにくい仮想通貨で工作資金を送ったはずなのに、実行犯であるカザフ族難民・エルシンの人材の質が低すぎたことで、実態が明るみに出てしまったのだ。
(安田 峰俊)