日本メーカーのEV(電気自動車)対応の遅れが、いよいよ外交面にも影響を及ぼし始めている。昨年、ASEAN首脳会議出席のため来日したタイのセター首相は、日本に対して「迅速に動かないと巨大なサプライチェーンが危険にさらされる」と異例の発言を行ったからだ。 【詳細な図や写真】タイのセター首相は日本の自動者産業に対して異例の警鐘を鳴らした(Photo:SPhotograph/Shutterstock.com)
タイと日本が長年かけて構築してきたサプライチェーン
タイは日本の自動車産業にとって、最大の製造拠点の1つとなっており、関連企業も含め、多数の日本企業が進出している。首都バンコクの東部には有名なアマタシティ・チョンブリ工業団地があり、3500ヘクタールという広大な敷地に700社もの企業が工場を構え、20万人の労働者が働く。これに匹敵する工業団地がタイには数十カ所も開発されており、進出企業の過半数は日本メーカーである。 生成AIで1分にまとめた動画 タイはもともと親日国ということもあり、日本とタイは自動車産業を中心に強固なパートナーシップを構築してきたと考えて良い。つまり日本のモノ作りにとってタイはなくてはならない存在であると同時に、中国に対する防波堤という意味で同国との関係は外交上も極めて重要な意味を持つ。だが近年、日本とタイが構築してきた強固なサプライチェーンの存在が危ぶまれる状況となっている。その原因は言うまでもなく全世界的なEVシフトに対する日本勢の遅れである。 日本メーカーは口ではEVシフトを進めると説明しているが、明らかに日本以外のメーカーと比較するとEVに対するスタンスが異なっている。EV市場は黎明期を終え、本格的な普及期に入ろうとしている。これまでのEV市場は、高級車を中心とした米テスラが圧倒的なシェアだったが、手頃な価格帯の製品もカバーする中国のBYDが猛追。2023年の10~12月には、とうとうBYDがテスラを抜き、トップに躍り出た。マス向けの製品を揃えるBYDがトップシェアになったということは、今後、手頃な価格帯のEV市場が急拡大する可能性を示唆している。 日本ではBYDの躍進について「中国市場だけの話」「EVなど使いものにならない」といった声ばかりが聞こえてくる。だがこうした見解はグローバルなトレンドを無視した、まさにガラパゴスなものである。確かに中国政府は国策としてEV推進しており、他国と比較してEVが普及しやすいのは事実である。だが、中国市場におけるEVの急拡大を無視、あるいは軽視する論者は、意図的なのか無自覚的なのかは分からないが、日本の自動車産業は世界に製品を販売することで事業を成り立たせているという現実から目をそらしている。 繰り返しになるが、中国は国策としてEVを推進しており、アジア全域にEVの巨大なサプライチェーンを構築しようとしている。当然のことながら、自動車という高度な工業製品の部品あるいは関連製品を大量に供給できる国は、タイなどごく少数の国に限られてくる。
タイとの関係は安全保障上の問題でもある
ガソリンエンジン主体の従来の自動車産業において、タイは最大のアジアにおける供給基地であり、そうであればこそ日本メーカーはタイに巨額の投資を行ってきた。一方、中国勢は国策としてEVシフトを進めると同時に、やはりタイを最大の製品供給地域と位置付け、今後、EV関連で巨額の投資を行う方向性を明確にしている。 当然のことながらタイの産業界は、その投資を前提に経営戦略を立案せざるを得ない。ここで問題となるのが、冒頭に紹介した日本との関係である。 タイは中国と距離が近いことから、常に中国の圧力を受ける立場にある。ビジネス上のつながりも深く、中国を無視することはできない。一方で過度に中国に近づけば、中国に飲み込まれてしまうリスクがあり、以前からタイは中国に対する牽制球として日本に強く期待してきた。 日本にとってもそれは同じであり、タイとの間に、製造業における強固なパートナーシップを構築していることは、中国に対する交渉材料となる。日本とタイが強固なビジネス上のつながりを持つことは、単なる経済的メリットを超えた、安全保障の領域に入るテーマと言える。 タイは日本と同様、自動車産業を基幹産業としており、今後も製品供給基地としての競争力を維持したいと考えている。そのためには、全世界的に進むEVシフトに迅速に対応し、先行して投資を行っていく必要がある。ところが、最も重要なパートナーである日本勢がEVシフトを進めるつもりがなく、タイは困惑している状況だ。 セター首相は2023年12月、日本と東南アジア諸国連合(ASEAN)の特別首脳会議に出席するため東京を訪れ、メディアの取材に応じた。冒頭の発言はその中で出てきたものである。セター氏は「日本に対して要求する立場にはない」としながらも、「迅速に移行しないと遅れを取るだろう」と異例とも言える指摘を行った。また、タイにおいてで中国企業の投資が進んでいることについて「日本と中国の進出でどちらを好むかというのは問題ではない。両国を分け隔てる必要はない」とも発言している。 セター氏は慎重に言葉を選んでいるものの、このままでは中国メーカーとパートナーシップを組むしかタイには選択肢がなくなり、結果として自動車の巨大製造拠点としてのタイを失う可能性があると警告しているのだ。親日国であるタイの首相からこのような発言が出ていること自体が危機的な状況と言えるが、日本国内の関心は異様なまでに薄い。
タイの首相以外にも…日本企業の遅れを指摘する“ある人物”
こうした見解はセター氏による個人的なものではない。同じタイミングで、タイの4大財閥の1つとされるサハ・グループのトップも、日本メディアの取材に対してほぼ同じ発言を行っているからだ。 同グループのブンヤシット・チョクワタナー会長は、日本企業のビジネスについて「従来のステップ・バイ・ステップを踏襲しており判断が遅い。(革新の)スピードが速い今の世界には合わない」と厳しく指摘。具体例として中国製のEVを取り上げ、「BYDの車は乗り心地が良く、値段も安い」とし、「エンジン車からハイブリッド車(HV)という段階を踏む日本企業の発想では競争に勝てない」と、日本勢の遅れを危惧した。 ちなみにサハ・グループは消費財を得意とする財閥で、ライオン、ワコール、セコム、ローソンなど80社もの日本企業と提携しており、日本のサービス産業がタイに進出する足がかりになっている。
日本人は失うものの大きさが分かっていない
先ほど筆者は日本とタイは自動車産業で巨大なサプライチェーンを構築していると述べたが、その効果は自動車産業だけに及ぶものではない。両国に巨大なサプライチェーンが構築されれば、当該産業だけでなく、そこで働く人たちに向けたサービス業のサプライチェーンも同時に出来上がることになる。 タイには自動車産業の従業員を中心に何と8万人もの在留邦人がおり、ここに向けて多くの日本企業がタイに進出している。首都バンコクの街中を歩けば、ここは日本なのかと見まがうほど、日本企業のチェーン店が軒を連ねている。日本がEVシフトに乗り遅れれば、これらのすべてを失ってしまうことを多くの日本人は理解していない。 まるで日本のようだったバンコクの風景は、今、急激に変わろうとしている。 小売店などのサービス業については、現時点でも日本勢の存在感は大きいが、道路に目を転じるとまったく異なる光景が目に入ってくる。バンコクの道路にはすでに多くのEVが走っているが、目につくのは中国のBYDばかりである。このまま何もしなければ、タイに巨大な中国メーカーのサプライチェーンが出来上がり、多くの中国チェーン店が市場を席巻することになるかもしれない。