放置された宅地が脚光を浴びた日 バブル崩壊後に千葉県の郊外地が名を連ねた「不名誉」なランキング

「限界ニュータウン」や「限界分譲地」と呼ばれ、郊外型ニュータウンやそのさらに外側にある小規模住宅分譲地などで空き家や空き地が増加する中、所有者が亡くなって突然相続したオーナーは、その土地が開発された経緯や当時の価格などを知らず、自力で集められる情報は限られるため土地を持て余している。千葉県北東部に散在する旧分譲地の探索ブログやYouTubeチャンネルを運営している吉川祐介氏は、昭和の時代に投機目的で開発されたそれらの土地にまつわる諸問題を解説する。同氏の新著『限界分譲地 繰り返される野放図な商法と開発秘話』(朝日新聞出版)から一部を抜粋、再編集し、1970年代に開発された投機型分譲地について紹介する。 【写真】都内に潜む限界集落はこちら *  *  * ■投機型分譲地が「限界分譲地」に  千葉県北東部の農村部において、1970年代の初頭から開発された分譲地の多くは、広告では、都心通勤者のためのベッドタウンとしての住宅用地と謳われていた。そこに記載されていた都内の主要駅までの所要時間は、今日の不動産広告の厳しい基準と比較するとかなり甘めの見積もりで、中には、どう考えても不可能な、虚偽の所要時間を記載する不誠実な会社もあった。

 しかし、当時は都心部の住宅事情が今よりもずっと劣悪だった時代である。公害もひどく、今日のような良質な集合住宅もまだほとんどない。宅地分譲と言えば、さすがに成田の山奥とまではいかないまでも、多少都心部から離れていようとも緑豊かな郊外が喜ばれた時代だったことも事実である。それもあって、現実には通勤はなかなか困難であろうと思われるような遠郊外部の分譲地でも、今ほど奇異なものとして捉えられなかったところはあったのかもしれない。  ところが実際には、利便性が著しく低く、価格の安さばかり大きくアピールしていたような分譲地は、自分では暮らす気のない、投機目的の購入者が大半を占めていたのが実情であった。  もちろん、分譲当初から自己使用のために購入し、家屋を建築した住民もいないわけではなかったが、全体として極めて少数派であり、大半の区画が空き地のまま放置されていた。1976年に分譲された香取郡下総町(現・成田市)のある住宅団地は、その8年後に撮影された航空写真を見ても、総区画数200区画のうち、建物はわずかに10戸ほどしか見られない。  分譲地によって多少差はあるものの、最初から建売販売が行われた分譲地を除き、80年代半ばころまでに開発された成田空港周辺の住宅分譲地で、区画のすべてに家屋が建築されたところなどほぼ皆無なのではないだろうか。駅や商業施設にも近い条件の良い住宅地を除き、どこも建物の間の所々に空き地が残されたままの光景が日常のものとなっている。

 そんな、ほとんど利用もされていなかった投機型の分譲地が、にわかに活況を呈し始めたかに見えた時期が、1980年代後半からの、いわゆる「バブル景気」の時代である。バブル時代の投機は公共事業やリゾートなどの大型開発に顕著であり、個人向けの宅地分譲は、70年代ほど大量に開発されることはなかったものの、地価の高騰はすさまじく、都内は言うに及ばず、千葉県においては、県都である千葉市をはじめとした県内の主要都市もまた、平均的なサラリーマンではおいそれと手が出ない価格帯に到達してしまった。 ■バブル期に脚光を浴びた千葉県八街市、東金市  その際に、廉価な住宅地として脚光を浴びたのが、八街市、東金市などをはじめとした、千葉県の遠郊外部の住宅地である。70年代に数多く開発・分譲されたものの、その後利用されることもなく塩漬けの状態にあった宅地に、次々と新築家屋が建てられるようになっていった。都内へ通勤するには大変でも、例えば勤務先が千葉市周辺であれば、自家用車で通勤するのは十分可能なエリアである。  新たに開発された宅地ではなく、すでに工事は完了していた既存の分譲地なので、利便性を問わなければすぐに利用することができたし、その時点で膨大な数のストックが残されていた。個人が購入して新築住宅を建築するほか、地元業者による建売住宅の建築用地としても使われ、ほとんど空き地ばかりの分譲地の中に、1ブロックだけ同じような外観の家屋が立ち並ぶ光景も見られた。

 これが千葉県北東部の限界分譲地において、開発時期が70年代であるにもかかわらず、80年代末以降に建築された家屋ばかりが見られる理由である。少なくない分譲地は、開発から10年以上のタイムラグを経て、バブル期の地価高騰時になってようやくまともな実需が発生したのだ。  だが、それでもすべての区画が再利用されることはなかった。地価高騰の受け皿としてある程度は機能したものの、新たなニュータウンとしての活路が見いだされたところはほとんど存在しなかった。これらの投機型分譲地は、利便性は当時も今も変わらず極めて悪い立地ばかりである。むしろ当時の方が、バス便が多少は今よりも多かったかもしれないが、ネット通販などもなく、情報や娯楽も限られていた分、より生活は厳しかったのではないだろうか。  言葉は悪いが、その家屋の並びはまさに虫食い(スプロール化現象)そのもので、それはバブル崩壊後もしばらく続いたが、やがて地価の下落が始まると、そうした「ベッドタウン」としての需要は急速に失われていく。  いくら地価が安くても、やはり通勤も日常生活も不便すぎるし、成長した子供世代も、進学、あるいは就職を機会に地域を離れなければ、選択肢が極めて限られてしまうのだ。この点については、一般的な地方や農村部における若年層の流出事情と同様である。

■バブル崩壊後、競売が激増  一方、バブル景気時に急速に人口が流入した八街市、山武町(現・山武市)などでは別の深刻な事態が発生した。もともと農業主体の小都市だった両市は、バブル期の住宅建築ラッシュにより人口が激増し、学校では新学期になると、壇上に多数の転校生が並んで紹介される、という状態だったのだが、そもそも高金利のバブル時代に、利便性の厳しい投機型分譲地で自宅を建築した人の中には、予算に余裕のない住民も少なくなかったようである。  2010年、八街市と山武市は、それぞれ競売物件の数が全国1位、2位という不名誉なランキングに名を連ねてしまう。翌2011年は、八街近隣の市町村である東金市や大網白里町(現・大網白里市)でも競売物件の増加が顕著に見られた。いずれも、バブル期に住宅建築が著しく進められた千葉県の遠郊外部である。  もちろん、そのすべてが投機型分譲地に建てられた住宅というわけではないが、千葉の遠郊外部における、住宅ローン返済の焦げ付きによる競売物件の増加は当時にわかに注目され、その研究を行った大学論文や新聞記事も残されている。

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