宮城県山元町では、震災からの復興に合わせて住宅や公共施設などを中心部に集めるコンパクトシティに取り組みました。その光と影です。
山元町のJR山下駅前の整然とした市街地は、震災後に造られました。山元町は震災の津波で4割もの土地が浸水し、637人が犠牲になりました。震災前から始まっていた人口減少が、更に進むことは避けがたい状況でした。
震災当時に山元町長だった斎藤俊夫さんです。町の惨状を見て、津波が来にくい内陸部に人口減少に対応したコンパクトな市街地を造ろうと決意しました。
震災当時の山元町長斎藤俊夫さん「東日本大震災という甚大な被災を被った自治体の首長としては、二度と悲惨な思いを町民にさせたくない」
JR常磐線は、被災をきっかけに内陸に1キロほど移ることになりました。斎藤さんは沿線3カ所に市街地を造り、22カ所の集落を誘導することにしました。
住宅や公共施設を集めるコンパクトシティは、水道や道路などの維持費を抑えられます。国からも手厚い財政支援も用意されていました。
コンパクトシティに取り組んだ例としては、富山市が有名です。鉄道の整備にあわせ、時間をかけて進めました。これに対し、山元町は復興を進めるため急がなければなりませんでした。
山下駅前では、震災から5年後に新しい市街地つばめの杜が街開きしました。沿岸部の自宅が被災した斎藤さんも現在はこの地区に住み、コンパクトシティの効果を実感していると言います。
町民が食品などの最寄り品を町内で買う割合は、2021年度までの9年間で3割から7割近くまで高まりました。
斎藤俊夫さん「自分の目の前で皆さんが買い物しているし、子育て世代が移り住んで来てもらっているし。我々苦労したけれども、苦労のしがいがあったかなって思っている」
ただ、コンパクトシティへの道のりは平たんではありませんでした。新市街地への集約などをめぐり、住民や議会から反発が出ました。関連議案が否決されたり、斎藤さんの責任を問う決議が可決されたりしました。
斎藤さんは2014年の町長選挙では当選したものの、得票率51%の薄氷の勝利でした。2022年の町長選挙では落選し、現在は町議会議員です。
星新一さん「昔は必ず2月末ごろにホッキ祭をここでやっていました。すごい人が来てね、盛況だったんですよ」
沿岸の磯地区で網元の家に生まれた星新一さんは震災当時、行政区長でした。津波で自宅を失った星さんは、地区の20戸から30戸ほどで漁港から1キロ離れた高台へ移転することを目指して請願書も出しました。
しかし、町は防災集団移転の条件を50戸以上として移転は受け入れられませんでした。
当時の星さんです。
星新一さん「3カ所の集団移転の地を定めるに当たって、被災した住民の意向は全く入っていない。町が決めた所に来なさいということですから」
結局、磯地区の人たちは町の内外に散らばり、星さんも震災から2年後に名取市へ引っ越しました。家族の都合も踏まえた決断でしたが、割り切れない思いは残っています。
星新一さん「そういう方法(コンパクトシティ)もあるってことは理解できたんですけども、被災住民の意向なり気持ちをもう少しくみ取ってほしかったな、という思いはありますね。ずっと子どもの頃から育ってきた地域のコミュニティーは、ばらばらになっちゃった」
地域の絆やなりわいを大事にしたい住民の思いと、将来世代の負担も見据え効率も考える行政の思惑は必ずしも一致しません。どこで折り合いを付けるかは災害からの復興だけではなく、今後、人口減少が本格化する都市部にも共通する課題です。
山元町の復興過程を論文にまとめた東北大学の伏見岳人教授です。
伏見岳人教授「(人口が減る中)理屈の上ではコンパクトシティにせざるを得ない。全国的にせざるを得ないというのは皆、理屈の上では分かっていると思う」
山元町の取り組みについて、復興にあわせて短期間で大規模に進め人口の流出を招いた
副作用もあったと指摘します。
伏見岳人教授「(住民が)先祖代々の土地を捨てて集まっていくという決断を迫られる時に、そんなに簡単に培ってきた思いは断ち切れない。悪意を持ってやった人はだれもいない。皆が善意で(それぞれが)目指すべき姿に向かって進んでいった事例だと思うんです」
人口が急速に減少していく日本でどのような街づくりを進めていくべきなのか、山元町の事例は私たちに多くの教訓を残しました。