「ソフト老害」に流行の兆し
それなりに仕事などを頑張ってきて年を重ねてきたのに、「老害」などと言われていることを知ったら、かなり深い悲しみに襲われることだろう。
【写真を見る】「売れっ子タレント」だが自分が「ソフト老害」になってきていると感じ“引退”を決意したという 【実際の写真】
それでもまだ、すでに組織をリタイアした身であれば諦めもつくかもしれない。が、最近では「ソフト老害」なる表現まで飛び出している。この言葉の「発明者」とされるのが、売れっ子放送作家の鈴木おさむさんだ。鈴木さんは著書『仕事の辞め方』の中で、自身の経験を踏まえながら、高齢者や圧倒的な上位にいる立場ではなく、たとえ40代であっても、言動によっては若い世代を邪魔したり、押しつぶしたりすることがある、として、従来の老害とは区別する意味で「ソフト老害」という表現を用いたという。
「ソフト老害は自分ではなかなか気づけないから、厄介です。僕自身もそれに気づけなかったように。
大切なのは、40代でも行動次第では老害なんだという考えを世の中に広めることなのではないかと思い、僕はこれを書いています」(鈴木おさむ著『仕事の辞め方』幻冬舎)
鈴木さんは、自分自身が「ソフト老害」的存在になってきていると感じたのが、放送作家を引退することにした理由の一つだという。かなり話題になっているので、もしかすると「放送作家」としての鈴木さんが生み出す最後の流行語となるかもしれない。
一方で、これは30代~50代の中間管理職にとっては厄介な言葉になりそうだ。ただでさえ若手社員に対しては尋常ではないほど気を使ってきたのに、こういうフレーズが広まるとさらにストレスが増してしまう――そんな恐怖を感じる人もいるのではないだろうか。
そもそも「老害」にせよ「ソフト老害」にせよ、言っているのは「下」の人であって、客観的な評価ではない。第三者から見れば「経験に基づいた正当な発言」や「大先輩の妥当な意見」である可能性も十分ある。
人材育成の仕事に携わってきた、コンサルタントの山本直人氏は、著書『聞いてはいけないスルーしていい職場言葉』の中で「老害」という言葉に触れ、安易に使うのが危険な言葉の一つだと指摘している。
一体何が危ないというのか。以下、見てみよう(『聞いてはいけない』所収「『老害』はブーメランとなって返ってくる」より)
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「老害」はブーメランとなって返ってくる
もうずいぶん前の話ですが、テレビで売り出し中の若手芸人がこんなことを言っていました。
「いつまでも先輩がいろんなところでお元気だから、なかなか出番がまわってこないんですよ~」
たしかにテレビ番組の中には、番組タイトルに有名タレントの名前を冠しているものもあります。その番組の顔なのですから、交代も難しいのかもしれません。それは、若手にとっては「いつまでも居座って」という感覚になるのもわかります。
その話を知人にしたら、ベテランのタレントが、それとまったく逆のことを言っている記事を読んだといいます。
「いまの若手は、俺のポジションを奪いに来ようという根性がない。おかげで今でも忙しくさせてもらってる」
若手から見れば「ベテランの居座り」でも、ベテランから見れば「若手の根性なし」となる。お互いに言い分はあるのでしょうが、これは芸能界に限らず、いろいろなところで見られることだと思います。
たしかに、マンネリ化しているようなテレビ番組で、しかも発言のセンスがどうもズレてきているような人もいます。一方で、それでも続いているのは内容や視聴率などの観点から「続ける方がいい」と局側が判断しているからでしょう。
実際に、高額なギャランティーに見合わない成果であれば、大物タレントの番組が打ち切りとなることも珍しくありません。
それでも、若い人が「上が詰まっている」と感じることはどの世界でもあるでしょう。そうした中で、「老害」という言葉が当たり前のように使われるようになっています。
相当年齢の高い人たちが組織の実権を握り続けた結果、時代の波に乗り遅れてしまうようなケースは実際にあると思います。さらに、そうした人たちによって不正な運営がおこなわれて告発されるようなケースさえあります。
権力の座に居座り続けると、問題が起きてくる。これは、大昔から知られていたことでしょう。ですから、政治指導者に任期を設けるような規定を持つ国も多くあります。独裁が続く国がどのような運命をたどるかは歴史が教えてくれています。
つまり現象として「老害」といわれても仕方のないような事実はあるでしょう。
しかし、最近の「老害」という言葉の使われ方を見ていると、ちょっと引っかかることが多いのです。高齢者の気になる行動をとにかく「老害」と決めつける人は、どうも思考を停止させているように思えるのです。
そのことについて、少し考えてみましょう。
できる人は他人のせいにしない
そもそも「老害」という言葉は、ネット上で広まったといわれています。しかし、かなり昔の小説にこんなセリフがあります。
「老害よ、即刻に去れ、であります」
これは松本清張の『迷走地図』(新潮社)という小説で、政治家が演説するシーンの一節です。出版されたのが1983年で、当時も居座りへの批判や、世代交代を求める声は強かったことがうかがえます。
とはいえ特定の年代の人を批判する表現ですから、同じような感覚を持つ人たちの間の方が使いやすいでしょう。何か事が起きた時に「老害だよな」と言って、自然に共感される仲間うちの方が使いやすいはずです。
その一方で、若い人でも、そうしたことを言わない人がたくさんいることもたしかです。「老害」という言葉を発しない、「上の世代のせいにする」という発想がない人たちは確実にいます。
では、「上の世代のせいにしない人」にはどんな共通点があるのでしょうか。いろいろな社会人や学生と接してきてわかったのですが、彼らはみんな自分の仕事の質をより高めることに集中しています。勉強熱心ですから、常に「自分はまだ何か足りない」という意識が強いのです。
そういう人は、うまくいかないことを他人のせいにしません。そんなことを考えているくらいなら、自分で道を拓こうとします。
そして、向上心の強い人は自然と同じところに集まってくる。これもまた当然のことでしょう。
他方で、指導者が硬直的な組織にいると、いくら頑張っても「上が通してくれない」ようなことはあります。以前であればそのまま燻(くすぶ)ってしまうケースも多かったのでしょうが、いまは転職の選択肢も豊富になっています。
転職を選んだ人は、やはり向上心の強い人たちと合流していきます。多少リスクがあっても、硬直した組織にはいません。
その結果として、「いつまでも他人のせいにしてしまう人」もまた同じところに集まります。組織においてもそうですし、ネット上でも同じです。
そして、うまくいかないことを他人のせいにして、年上の人がネックだと感じれば「老害」と言えばそれで済みます。考えてみれば、これはこれでそれなりに居心地がいいのでしょう。
怒るくらいなら新たな道を
しかし、そうやって人を悪く言っているうちに、実は大きな機会を失っているように思います。なにか高齢者が事件を起こしたりするたびに、ネットニュースのコメント欄にある「老害!」という罵りを見て溜飲を下げても、何も変わりません。
上司の無理解を嘆きながら愚痴を言い合っても、やはり変わりません。そうやって、気づかぬうちに自分が狭いところに追い込まれていく。そして、キャリアの選択肢もなくなってしまう。
「老害」と他人のせいにしているうちに、それはブーメランのように自分に返ってくるのではないでしょうか。
そもそも自分と異なる集団をいくら罵っても、たいした収穫はないと思います。上の人間が「いまの若手は」といくら嘆いても、変化は起きない。同様に、「老害」と嘆く人も、立場が逆なだけで単に停滞しているだけのように感じます。
ただし、自分が若いのであればいろいろな選択肢があります。先に若手芸人の嘆きを書きましたが、あれはまだインターネットが発展途上であり、テレビ番組の出番がすべての時代でした。
その後インターネットで自分の動画を公開することが可能になりました。そこでいち早く先駆けとなった人々は、いまや「小学生のなりたい職業」で上位に挙げられるほどメジャーになっています。
怒りやいら立ちを自分のエネルギーに変えていく人はいます。一方でその場で不満をため込むだけの人も多いと思います。そして、毒の強い言葉は、人を必要以上にいら立たせます。「老害」というのは、毒の強い言葉の典型だと思うのです。
理不尽さをことさらに突き付けられれば、だんだんと意欲は低下していきます。だったら、二言目には「老害」というような集団やメディアからは距離を置いたほうがいいのではないでしょうか。
最大の問題は非公式な権力構造
いまの社会では、たしかに「老害」といわれても仕方のないような現象もある。しかし、その言葉を発していると、段々と自分に毒が回ってくるのではないか。それよりは、他人のせいにしないで道を拓くことを考えた方がいい。
これは、理想論かもしれません。そこで、私が考える「本当に困った老害」についてあらためて書いておこうと思います。
それは、「非公式な権力構造」がいつまでも温存されている状況だと思うのです。
上にいる人が相当の高齢だとしても、認められた手続きで選ばれたならば、それを害とはいわないでしょう。米国の大統領も史上最高齢ですが、それを承知の上で「勝てる候補」として選ばれ、実際に勝利したわけです。
いっぽうで、公の権力がないにもかかわらず、組織の意思決定に関与しようという人がいます。
日本の企業ですと、元の経営者で取締役すら引退した人が、実質的な権力者として居座ることがあります。また、役員経験者のOBがいつまでも経営に口を出し、時には徒党を組んで意見を突き付け、経営者がその対応に四苦八苦するようなケースも未だに多いのです。
政治の世界でも似たようなケースはありますが、まだ報道などでいろいろなことが見えていきます。しかし企業に関してはよほどのお家騒動にでもならなければ、あまり報道されることもありません。
この非公式な権力構造は、日本企業が停滞してきた大きな原因の一つだと思います。これこそ「老害」として糾弾されるべきことでしょう。
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山本氏が「糾弾されるべき」としている「老害」は、政界あたりで探せば「あの人」「この人」とすぐに頭に浮かぶだろう。
ただ、実のところ、「老害」もあれば「若害」のようなものだってある。
己の不満や不遇を安易に他人のせいにするのはあまり得策ではないのかもしれない。
デイリー新潮編集部