なぜ日本人の賃金は上がらないのか。名古屋商科大学ビジネススクールの原田泰教授は「製造業、情報通信業、サービス業など、広範な分野で生産性が低下している。特定の分野での政策を正せば直るという話ではなく、『変化を嫌い、競争を避ける』という根本的なところに問題がある」という――。(第1回) 【図表】主要国の実質賃金 ※本稿は、原田泰『日本人の賃金を上げる唯一の方法』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■日本は「貧しい国」になってしまった 日本の賃金は上がらず、日本は先進国の中で貧しい国になった。また、アジアや東欧の新興国も日本を追い上げている。もちろん、日本は十分に豊かだという人もいるのだが、先進国の中での豊かさのランクは少しずつ低下している。また、高齢化、温暖化、国防などに対処する必要もある。 働く人が減って高齢者が増えれば、高齢者への年金を減らすか、働く人の年金保険料を上げるかしかない。また、医療費の問題もある。確実に治るが、とてつもなく高い薬がある(手術などの他の治療法でも同じである)。そういう薬があるなら、誰でも使ってほしいと思うだろう。 たとえば1970年代の生活で十分という人もいるが、70年代までの医療技術で治らないなら諦める、と言ってくれる人はいないだろう。温暖化対策は日本企業にとってチャンスだという人もいるが、特定の企業にとってはチャンスでも、日本経済全体にとってはチャンスではない。日本全体では、化石燃料よりも高いコストのエネルギーを使わなくてはならないからだ。 国防費は要らない、という人もかつてはいたが、ロシアがウクライナを攻撃し、北朝鮮がミサイルを盛んに発射しているところを毎日テレビで見ていれば、要らないという人はほとんどいなくなっているのではないか。 成長すれば、以上述べたようなコストを賄(まかな)うことができる。そしてもちろん、このコストを賄う以上に成長すれば、私たちはより豊かになれる。先進国の中で、日本の所得だけが低迷している、という残念な状況から抜け出せる。
■日本の賃金は1990年から上がっていない 2021年10月に岸田文雄政権が発足し、「成長よりも分配」と言い出して間もなく、世間に広まったグラフがある。日本の実質賃金が上がっていない、というグラフである。図表1に見るように、1990年から日本の賃金は上がっていない。 一方、アメリカはもちろん、ドイツもイギリスもフランスも上がっている。韓国の賃金は上昇して日本を追い抜いている。これらの賃金は、フルタイムで働いた場合に換算した実質購買力平価(2022年購買力平価ドル)での実質賃金だ。 購買力平価とは、変動の大きい為替レートと違って本当の生活水準を表すものだ。日本とイタリアは1990年以降、ほとんど賃金が上がっていない。賃金が上がらないのは、企業が利益をため込んで労働者に還元しないからだという人もいるかもしれない。 しかし、すべての賃金とすべての利潤を合計したものであるGDP(正確に言うと、すべての賃金とすべての利潤を足したものは国民所得で、GDPはこれにさらに資本減耗を足したものだが、国際比較に便利なGDPを用いた)で見ても、日本の1人当たり実質GDPは他の国と比べてやはり伸びていない。それを示したのが、図表2と図表3である。
■日本が成長できないのは「成熟している」からか 図を2つに分けたのは、国の数が多すぎるとグラフが分からなくなってしまうからだ。図表2は主要先進国(国の数が多いと分かりにくくなってしまうのでカナダを除いている)、図表3はアジアの先進国を示している(参照のため、アメリカと日本も示している)。 1人当たり実質購買力平価GDPは、実質賃金と同じように、アメリカはもちろん、ドイツもイギリスもフランスも上がっている。イタリアは上がっていないが、台湾も韓国も日本を追い抜いている。図が分かりにくくなるので示していないが、シンガポールは、日本どころかアメリカをも1990年代初めから追い抜いており、2023年で10.9万ドルである(2017年購買力平価ドル)。 2023年で、アメリカの1人当たり実質購買力平価GDPは、日本よりも54%も高い。ドイツは27%、フランスは13%、イギリスは9%、イタリアは4%日本より高い。また台湾は39%、韓国は9%日本より高い。つまり、日本人の賃金が伸びないのは、そもそも利潤も賃金も両方、伸びていないからだ。 これに関して2022年4月21日、テレビ朝日系の報道番組で、著名なエコノミストが「日本は成熟しているから(成長できなくても)仕方がない」と発言したのに対し、コメンテイターの玉川徹氏が「ヨーロッパも成熟しているが、なぜ成長できないのか」と尋ねたところ、高名なエコノミスト氏は何も答えられなかった。
■「GAFAがないから成長率が低い」は間違い では、なぜ日本は成長し、賃金を上げることができないのか。ここで見ているのは1人当たりの実質GDPや労働時間当たりの実質GDPであるから、ほぼ生産性、ということである。ではなぜ、生産性が上がらないのか。 GAFA(Google、Apple、Facebook=現メタ・プラットフォームズ、Amazon)欠如論というのがある。アメリカにはGAFAがあるが、日本にはないからダメだ、という議論だ。最近ではGAFAに代わり、FAANG(Facebook=同前、Amazon、Apple、Netflix、Google)、MTSAAS(Microsoft、Twilio、Shopify、Amazon、Adobe、Salesforce、マウントサースと読む)などという言葉も使われる(会社名が変わり、先進ハイテク企業と新たに認識される企業もあるのでビッグ・テックといったほうがよいかもしれないが、ここではGAFAとしておく)。 日本にはないから成長率が低い、という議論だ。そうすると、成長率を上げるためには日本もGAFAを生むしかない、という話になる。ではどうしたらGAFAを生めるのか、と言っても、実は誰も分からない。 補助金をつけて日本版GAFAを無理やり生む、ということは考えられるが、その補助金を日本の既存企業への課税で得るなら、そこそこ成功している日本企業の足を引っ張ることになる。しかし、ドイツにもイギリスにもフランスにも台湾にも韓国にも、別にGAFAはない。 成熟したヨーロッパでも成熟していない台湾や韓国も、GAFAはなくても賃金は上がり、成長している。日本より1割から3割、1人当たりの実質GDPが高いのだから、GAFAがないのが日本の決定的な弱さとは言えない。
■日本の労働生産性はアメリカの7割以下 図表4は、学習院大学の滝澤美帆教授が作成した2017年の産業別の日米労働生産性水準の比較である(「産業別労働生産性水準の国際比較~米国及び欧州各国との比較~」日本生産性本部生産性総合研究センター『生産性レポート』Vol. 13 、2020年5月)。このような図は、Dirk Pilat, “ The Sectoral Productivity Performance of Japan and the U.S. 1885-1990, ” The Review of Income and Wealth, Table 4(December 1993 )以来、さまざまに作成されてきたが、現在、最も信頼できるものはこれである。 図から明らかなように、広範な産業分野で日本の生産性が低い。アメリカを100とした生産性で、製造業(建設業なども含む)全体で69.8、サービス業全体で48.7なのだから、アメリカの1人当たり実質GDPが日本の5割以上も高いのは当たり前である。図表5は、1997年の日米労働生産性の比較である。 これを見ると、アメリカを100とした生産性は、製造業全体で72.7、サービス業全体で57.3だった。
■インフラや製造業も生産性が大きく低下 ところが前述のように、1997年から2017年にかけて、製造業全体で69.8、サービス業全体で48.7に低下している。すなわち、日本のアメリカに対する相対的な生産性は、製造業全体で4.0%(69.8/72.7-1)低下、サービス業で15.0%(48.7/57.3-1)低下、全体でも1割低下している。 日本のアメリカとの相対的な生産性は、追いつくどころか引き離されている。平均よりましなのは化学、建設、専門・科学技術・業務支援サービス、その他サービス、運輸・郵便、食料品、宿泊・飲食であり、平均以下は、一次金属・金属製品、汎用・生産用・業務用機械・電子・電気機械、金融・保険、輸送用機械、その他製造業、電気・ガス・水道、卸売・小売、不動産、石油・石炭、情報・通信、農林水産業である。 製造業でも低下し、情報・通信も大きく低下している。情報通信業での大きな低下は、たしかにGAFAの欠如が関係しているのだろう。また、アマゾンは小売だから、卸売・小売の低さにもGAFAが関係しているだろう。グローバル競争に負けて、かつグローバル競争と関わらないところでも生産性が低下している。
■「保護農政」によってさらに生産性が低下 農業は、低い生産性がさらに低くなっている。 農家の高齢化、後継者の不在などによって、零細な農家が生産をやめるのに伴い、新たに農業に参入する人々が増えている。この動きを促進すれば、やる気のある農家に土地が集まり、規模の経済によって生産性が高まり、農業は産業として自立でき、発展できる。ところが、このような動きを押しとどめているのが、零細な農家の退出を食い止める保護農政である。このようなことをやめれば、日本農業の生産性は飛躍するだろう。 この中で、建設業のアメリカとの相対生産性が、1997年の58.1から2017年の79.4まで、20%ポイント以上も上昇しているのは心強い。日本生産性本部のレポートでは、この理由として「建設業において、労働生産性格差が20%ポイント超の大きな幅で縮小している。これはオリンピック等の建設需要によるこの時期特殊の要因が含まれている可能性がある」としている。 すなわち、需要が増加したから労働生産性が上昇した、というのだが、それだけでなく、建設業の人手不足に触発されたものがある、と私は解釈したい。人手不足で、省力化投資が進み、労働生産性が上がったのであろう。 具体的に考えてみても、鉄骨の組み立て、コンクリートの打設、建物の解体、現場の情報システムで大きな進展があった。建設業を別として、特定の分野で相対生産性が低下しているだけでなく、幅広い分野で低下している。これは、何か特定の分野で政策を打てば、あるいは特定の分野での誤った政策を正せば直るという話ではない。
■日本が学ぶべきなのはアメリカだけではない このように広範な分野での生産性の低下は、「日本はキャッチアップを果たしたのだから、これからは独創性を発揮しないと発展できない」という言説がまったくの誤りであることを示す。これほど広範な部門で遅れているのだから、日本はキャッチアップをしなければならない。なぜキャッチアップできないのかという問題意識が必要だ。 これに関連して、前掲図表3で興味深いのは香港だ。まさにアメリカと同じ所得になったあと、停滞している(これは政治情勢も関係しているだろう)。香港なら、「もはやキャッチアップ型の成長はできない。これからの成長を支えるのは独自性と独創性だ」と言ってもよいかもしれないが、日本でそう言うのは全くの間違いだ。 なお、香港は平均寿命も日本を抜いて世界一である(日本は2位、厚生労働省「令和4年簡易生命表の概況」表5参考、2023年7月28日)。無理やりの延命治療がなされているとも思えないので、健康寿命も世界一だろう。日本が学ぶべきことは世界にはいくらでもある。
■経済発展できない2つの理由 なぜキャッチアップできないかといえば、私は、日本の行政のラダイト運動(機械打ち壊し運動)と護送船団行政大好き体質によると思う。 ラダイト運動とは、たとえばコロナ下でのPCR検査が目詰まったことに表れている。PCR検査の目詰まりとは、安倍晋三首相(当時)がPCR検査の拡大を指示しても増加しなかったことである。PCR検査が増えなかったのはなぜかと言うと、検査を手作業でやっていたからだ。「日本生まれ『全自動PCR』装置、世界で大活躍、なぜ日本で使われず?」(TBS NEWS 23 2020/06/29.)というTBSのニュースがあった。 検査をピペットで手作業でやっていれば、1日何百万回なんてできない。機械でやればできる。機械でやることを厚生労働省が邪魔していた。この自動機械は日本製で、全世界で使われているのに、厚労省は機械の導入を遅らせた。私は、これは厚労省による機械打ち壊し運動、ラダイト運動だと思う。 韓国は、コロナに対してすぐさま自動機械で大量検査した。検査の生産性は日本の100倍以上だろう。韓国では、あらゆるところでこのような生産性の上昇が実現している。だから、全体として生産性が上がり、賃金が上昇し、日本を追い抜いた。
■足並みをそろえることで効率が落ちていく もう一つは、護送船団行政大好き、競争嫌いの体質だ。2021年の秋以降に、コロナワクチンの第3回接種を6カ月間隔で行おうとしたが、8カ月間隔でないとできないという自治体の反対で、8カ月間隔に落ち着いた。 6カ月間隔の自治体がある中で、8カ月間隔でしかできない自治体があれば、そういう自治体は住民に批判される。だから、それは嫌だという。自治体間の競争で行政効率が上がるのに、あえて自治体の足並みをそろえさせる厚労省の競争嫌い、護送船団行政大好きの体質がある。 これがありとあらゆるところにある。競争がなければ、全体の効率は低下するだけだ。これでは賃金は上がらない。変化に反対するのではなく、変化を取り入れて進歩している国から学ばなくてはならない。
■変化を生むにはリーダーを変えることも必要 『ザ・クラウン』(Netflix)という、エリザベス2世と戦後のイギリス史を描いたドラマがある。1967年のポンド切り下げ時の話だが、王室の廐舎の競走馬が昔はレースで優勝したのに、近年は成績が振るわないことをエリザベス女王が嘆く場面がある。それで女王はどうしたか。 フランスとアメリカの廐舎を訪ね、彼らが科学的方法で競走馬を育成していることを知る。イギリスも学ばなければならない、といって旧態依然の廐舎のトップをすげ替え、新しいトップを任命する。海外の最新の方法を知った新しいリーダーが必要だと認識したのだ。 GAFAがないから日本はダメだ、といっても仕方がない。どうやってGAFAをつくったらいいか、誰も分からない。むしろGAFAのない国でも賃金が上がり、成長している事実を見て、そういう国がしていることをまじめに真似るべきだ。 故・エリザベス女王もそうしたのだ。成長するためには、生産性の上昇や競争の妨害を排除しなければいけない。これはGAFAを生むより簡単なはずだ。また競争の妨害がなくなれば、日本版GAFAも自然と生まれるかもしれない。変化を取り入れるには、リーダーを変えることも必要だ。
———- 原田 泰(はらだ・ゆたか) 名古屋商科大学ビジネススクール教授 1950年生まれ。東京大学農学部卒業。学習院大学博士(経済学)。経済企画庁国民生活調査課長、海外調査課長、財務省財務総合政策研究所次長、大和総研専務理事チーフエコノミスト、早稲田大学政治経済学術院教授、日本銀行政策委員会審議委員などを経て、現職。著書に『昭和恐慌の研究』(共著、東洋経済新報社、日経・経済図書文化賞受賞)、『日本国の原則』(日経ビジネス人文庫、石橋湛山賞受賞)、『日本はなぜ貧しい人が多いのか』(新潮選書)、『ベーシック・インカム』(中公新書)、『デフレと闘う』(中央公論新社)、『コロナ政策の費用対効果』(ちくま新書)、『プーチンの失敗と民主主義国の強さ』、『日本人の賃金を上げる唯一の方法』(ともにPHP新書)など多数。 ———-
名古屋商科大学ビジネススクール教授 原田 泰