もはや「持つ者」は自らの富や成功を隠そうとはしなくなった…「万人の万人に対する誇示状態」というべき「衝撃的な事態」

見知らぬ他人を羨ましく感じるのは、なぜ?――ソーシャルメディア時代の誇示

写真提供: 現代ビジネス

 誇示の主要な舞台はいまやインターネットに移っている。とりわけSNSの爆発的な普及は誇示をめぐる風景を大きく一変させた。 【マンガ】カナダ人が「日本のトンカツ」を食べて唖然…震えるほど感動して発した一言  ソーシャルメディアの登場は、私たちの振る舞いにどう影響しているだろうか。ここではアレクサンドラ・サミュエルの議論を見てみよう。それによると、第一に、ソーシャルメディア時代における「近接性(proximity)」の変化が指摘されている。一般に、私たちは身近なものほど親近感を抱きやすいが、ソーシャルメディアは、従来であれば知らずに済んだ他人の生活を覗き見ることを可能にし、いまや私たちの視野に入る範囲は、事実上、無制限になった。  第二に、ソーシャルメディアは社会的障壁を無効にし、これが人々の比較を解き放つことになる。かつては自分と同じ階級、同族の範囲内に留まっていたが、会ったこともない、そしておそらく今後も会うことのない他人との絶え間ない比較が始まったのだ。「さまざまな階級が競争と互いの比較をはじめるのは、既成の秩序が解体しつつあり、人間のあいだのが曖昧になるときである」(デュムシェル/デュピュイ『物の地獄』38頁)とは、まさに私たちの時代にこそ当てはまる。  そして最後に決定的なことに、かつて「持つ者」は「持たざる者」からの嫉妬を恐れ、富や成功を隠す傾向にあったが、ソーシャルメディアの時代にあって人々は自身の幸福をもはや隠そうとはしない。それどころか、自身の幸福を過剰に繕い、実態以上に見せることすらある。「私たちは妬みを引き起こしかねないものを隠すという考え方をやめ、嫉妬されそうな経験や獲得を褒め称えるようになった」(Alexandra Samuel, “What to Do When Social Me­dia Inspires Envy”, JSTOR Daily, 2018 〈https://daily.jstor.org/what-to-do-when-social-media-inspires-envy/〉)。  これにより、自慢と嫉妬の弁証法は相乗的に加速するだろう。  こうして、「万人の万人に対する誇示状態」ともいうべき事態が到来した。新年度のいっせいの着任・異動報告をはじめ、助成金や賞の獲得実績の状況、回転寿司チェーンでの人生を張った奇行まで、人々は休みなく誇示へと強制されている。何がこれほどまでに私たちを駆り立てているのか。

私的な事柄が露出される時代

 こうした誇示の状況は、精神分析理論家の立木康介が「私的領域が露出されてやまない時代」と表現したものと呼応している。立木によれば、現代とは、従来であれば秘すべきであった私的な事柄が公的に露出されるような時代にほかならない。  その象徴的なエピソードとして語られるのは、イタリアの首相であったシルヴィオ・ベルルスコーニとその妻ヴェロニカである。2009年の5月のある日曜日、メディアの紙面に「ヴェロニカの決意 さよならシルヴィオ」、さらに「ヴェロニカ、シルヴィオにさよなら 私は決めた、離婚を要求するわ」といった文字が躍ったのだ。これについて、立木は次のように言う。  もっともプライヴェートであるはずの決断が、もっともプライヴェートであるはずの段階で、あからさまに、無遠慮なまでに、不特定多数の耳目に押しつけられたのだ。いうなれば、ベルルスコーニ夫妻において、私的領域は秘められるべきものからへと変質したのである。(立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』河出書房新社、2013年、11頁)  現代では、多かれ少なかれ、誰もが私的であったはずのものを公的空間に垂れ流している。これは個人の内面、いわば心についてもそうである。立木は人々が心の闇をさらす社会を無意識が衰退した社会と捉えるが、これもまた誇示の民主化の一つの帰結と見ることができるだろう。

山本 圭(政治理論)

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