東日本大震災と福島第一原発事故から きょうで13年 追悼の一日

東日本大震災と、東京電力福島第一原子力発電所の事故の発生から11日で13年です。被災地では道路や防潮堤といったハード面の整備がおおむね完了した一方で、被災者の心のケアなど国によるソフト面の支援が継続しています。住民の高齢化や人口の流出が進む中、長期的な視点で被災者の暮らしをどう支えていくのかが引き続き大きな課題となっています。

11日は地震発生時刻の午後2時46分にあわせて各地で追悼式が行われます。

目次

目次を開く【3.11伝え続ける】東日本大震災 関連ニュースと特集記事東日本大震災関連の最新ニュースや動画、当時の様子を伝えるコンテンツなどをまとめています。

08:20 岩手 釜石 「芳名板」設置施設で献花

岩手県釜石市の鵜住居地区にある震災の追悼施設「釜石祈りのパーク」には、市内の犠牲者のうち遺族が公開を了承した1003人の名前が記された「芳名板」が設置されています。

施設には11日朝8時ごろから献花に訪れたり、手を静かに合わせたりする人の姿が見られました。

震災で兄を亡くしたという、釜石市出身で現在は埼玉県で暮らす70代の女性は「兄は視力が低下していたので、津波から逃げ遅れてしまったのではないかと考えています。震災から13年、長いようであっという間だったようにも感じます。兄には『家族みんな元気に過ごしているので、見守っていてね』と伝えました」と話していました。

06:30 岩手 宮古 能登半島地震の被災者気遣う声も

東日本大震災と福島第一原発事故から13年 追悼の一日 | NHKニュース

津波が押し寄せ、181人が犠牲になった岩手県宮古市の田老地区では、亡くなった人たちを悼むとともに能登半島地震で被災した人たちを気遣う声が聞かれました。

宮古市の田老地区では13年前、国内最大級と言われた防潮堤を乗り越えて津波が押し寄せ、震災後に新たな防潮堤が整備されました。

地区全体を見渡すことができる高台の「三王眺望公園」には、朝早くから地元の人たちが集まり、まちを見渡しながら手を合わせるなどしていました。

自宅が全壊したという加藤敏男さん(75)は海に向かって手を合わせ「いまでも亡くなった人たちのことを思い出すことがあります。亡くなった人たちが思い残したことを引き継いで、災害のない住みやすい田老をつくっていこうと思います」と話していました。

津波で自宅が流された大棒レオ子さん(76)は当時について「避難している途中に後ろを振り返ると海が上がってくるように津波が迫っていて本当に怖かったです。自宅が流されていくのは見ていられませんでした」と振り返りました。

そして「ニュースで能登半島地震の被災地を見ると、胸が詰まる思いです。早く仮設住宅ができてほしいです」と、涙ぐみながら被災した人たちを気遣っていました。

06:10 宮城 石巻 弟の後を継ぎギンザケ漁師に

宮城県石巻市雄勝町の海上には津波で亡くなった弟の後を継いでギンザケ漁師となった男性の姿がありました。

石巻市雄勝町でギンザケの養殖を営む阿部優一郎(53)さんです。

11日も6時すぎから海上にある養殖のいけすで勢いよく飛び跳ねるサケに餌を与えていました。

13年前、阿部さんは福島市内で働いていたため無事でしたが、雄勝町の実家が津波で流され、弟の良満さん、弟の妻、恵美子さんが犠牲となり、母の良子さんはまだ見つかっていません。

残された父や弟の息子を引き取り、福島市で暮らすことも考えましたが、父の代から続くギンザケ養殖を再開させるために仕事辞め、雄勝町に戻りました。

津波で船や養殖施設はすべて失いましたが、知り合いから船を譲り受け、がれきの中から漁具を見つけ出し、震災があったその年の秋にはギンザケの養殖を再開しました。

再開した当初は震災前より価格や水揚げ量が落ち込み赤字が続きました。

それでも弟の生きた証しを残したいという思いから諦めず養殖を続け、現在では震災前とほぼ同じ水準まで回復しました。

阿部さんは「最近は養殖や生活のことが頭の中にあるけど、やっぱりこの日だけは特別で、震災の時のことを考えてしまう。俺が代わりに頑張っているからおいっ子のことも心配しないで見守ってほしい」と話していました。

06:00 岩手 陸前高田 「奇跡の一本松」と献花台

東日本大震災と福島第一原発事故から13年 追悼の一日 | NHKニュース

岩手県陸前高田市では午前6時前に山のりょう線から朝日が昇り「奇跡の一本松」とともに静かな海の水面を照らしました。「高田松原津波復興祈念公園」では、11日朝早くから震災の犠牲者を悼む人の姿が見られました。

公園内にある「奇跡の一本松」はかつておよそ7万本の松が生い茂っていた陸前高田市の高田松原で、津波に耐えてただ1本残った松で、震災後はモニュメントとして保存・復元されています。

茨城県常陸大宮市から訪れ、近くの橋の上から朝日と一本松の写真撮影をしていた橋本義昭さん(72)は、震災後から被災地に通い、一本松の保存事業にも携わってきたということです。

また被災地の写真を撮影し続けて写真集を発行したり、展示会を開いたりしているということで「もう10年以上がたち、風化しつつあると感じるので、記録を残すことを続けるのが使命だと思っています」と話していました。

宮城県亘理町から夫婦で「奇跡の一本松」を見に訪れた岡田良郎さん(65)は「やっぱり一本松はすごいな、頑張ってほしいなと思いました。日本は災害が多いので、自分も地震や津波が来たらすぐに逃げるようにしたいです」と話していました。

公園内にある献花台には朝から静かに手を合わせる人の姿がありました。

7年前から陸前高田市役所で働く農林課の菅原剛治さんは、地震発生時の午後2時46分は勤務中で庁舎を離れられないため、11日朝に献花台を訪れました。

震災で知人を亡くしたという菅原さんは「『皆さん安らかに休んでください』と伝えました。住民がゆったりとした気持ちで暮らせるような街になればいいなと思っています」と話していました。

06:00 岩手 宮古 宿泊施設で災害対応訓練

岩手県宮古市田老では、市の職員や消防などが早朝から災害時の対応を確認する訓練を行いました。

訓練は宮古市田老の宿泊施設「グリーンピア三陸みやこ」で午前6時から行われました。

岩手県沿岸北部で震度6強の揺れを観測し、大津波警報が発表されたという想定で、市の職員や消防などが参加しました。

まず午前6時、防災行政無線などで、緊急地震速報が出たことが伝えられると参加した人たちは、施設のロビーで頭を守って低い姿勢をとり、安全を確保していました。

そして5分後、サイレンで大津波警報が出たことが伝えられると参加した人たちはスマートフォンの速報などを確認していました。

また、施設内には臨時の救護所が設けられ、地震でけがをしたという想定で医師や消防が症状を確認したりガーゼを巻いたりしていました。

06:00 福島 浪江町 海と原発に朝日

東京電力福島第一原子力発電所で処理水を薄めて海へ放出する作業が始まってから初めての3月11日です。

原発から北に7キロほど離れた福島県浪江町の請戸漁港では、午前6時ごろ、昇った太陽に海と原発が照らされていました。

06:00 福島 大熊町 中間貯蔵施設に朝日

東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故の発生から13年となる11日、福島県大熊町では、午前6時前に太陽が昇りました。

町にまたがる除染廃棄物の中間貯蔵施設では、除染で出た土や草が入った黒色の大型の袋などが積み上げられていて、その上を覆った緑色のシートが朝日に照らされていました。

05:30すぎ 福島 南相馬 「かしまの一本松」再び

福島県南相馬市鹿島区の南右田地区は、東日本大震災の津波ですべての住宅が流され、54人が犠牲になるなど壊滅的な被害を受けました。

地区にあった松林も流されましたが、高さ25メートルの1本のクロマツが津波に耐え、「かしまの一本松」、または「奇跡の一本松」と呼ばれ、被災した人たちを勇気づけてきました。

しかし徐々に枯れていき、震災の6年後に、かさ上げ工事などに伴って伐採されました。

震災前までこの地区に住み、市内の内陸部に移り住んだ五賀和雄さん(83)は、震災の記憶として伝え続けようと仲間とともにこのクロマツの松ぼっくり30個ほどから種をとって苗木にし、4年前に一本松のあった場所に植えました。

住民などの協力もあってこれまでに96本を植え、今では大きいもので、高さ1.6メートルほどにまで成長しました。

あの日から13年の11日、五賀さんは近くの防潮堤から海を眺め、朝日が昇ると静かに手を合わせ、祈りをささげていました。

五賀さんは「13年たっても同じ地区で暮らしていた17人が行方不明のままです。ここにあった松林が子どものころの遊び場で、力強く生きた一本松から受け継がれた木々を後世に残し、地区があったことを伝え続けていきたい」と話していました。

05:30すぎ 宮城 気仙沼 高台の公園で祈り

東日本大震災と福島第一原発事故から13年 追悼の一日 | NHKニュース

宮城県気仙沼市では津波で1万5000棟を超える住宅が被災し、市によりますと、関連死を含めて1220人が亡くなり、214人の行方がいまも分かっていません。

海や中心部の町並みを見渡せる高台に作られた「気仙沼市復興祈念公園」では、11日朝早くから海や町並みを写真におさめたり深々と頭を下げたりする人の姿が見られました。

新潟県から訪れた60代の男性は「震災の犠牲者に祈りをささげるとともに気仙沼市の復興が進んでほしいという思いで訪れました。全国で相次ぐ自然災害の被害が少なくなるよう祈っています」と話していました。

05:30ごろ 仙台 祈りささげる遺族

東日本大震災と福島第一原発事故から13年 追悼の一日 | NHKニュース

仙台市の海岸では犠牲になった家族へ朝早くから祈りをささげる男性の姿がありました。

津波でおよそ200人が犠牲となった仙台市若林区の荒浜地区です。

地区の海沿いは災害危険区域となったため住宅を建てることはできません。

荒浜地区で生まれ育った大学敏彦さん(69)です。

震災発生の当日、仕事で自宅を離れていて無事でしたが、津波で自宅と実家を流され妻と両親、兄とおい、合わせて5人を亡くしました。

妻の眞知子さん(当時60)はいつも笑顔で、けんかすることはほとんどなく大学さんに寄り添ってくれたといいます。

この13年、毎月11日の月命日には欠かさずここで祈りをささげてきた大学さん。

11日朝も、家族の名前が刻まれた慰霊碑に線香を手向けたあと、亡くなった妻を思い手を合わせ、慰霊の鐘を鳴らしました。

大学さんは「あっという間の13年でした。亡くなった妻には、残された家族をこれからも見守ってほしいという思いで手を合わせました。定年後は、夫婦で第二の人生としていろいろなところに行きたかったけれど、夫婦の時間がなくなり、寂しい思いです」と話していました。

また、能登半島地震で被災した人への思いについて聞くと「生きてさえいれば、私自身がそうであったように、周りの人が手を差し伸べてくれて前に進めると思います。地震が起きたら、とにかく逃げること、身を守ることにつきます」と話していました。

03:00 岩手 釜石 店舗流され、その後再建したパン屋

岩手県釜石市片岸町の小笠原辰雄さんと三智子さん夫妻は長年、パン屋を営んでいましたが、13年前の東日本大震災の津波で店と自宅を流されました。

それでも「自分たちのパンを楽しみにしている地元の人たちのためにパンを焼きたい」と、震災から7か月後には仮設店舗での営業を再開しました。

その後7年かけて、かつて店と自宅があった場所の近くでパン屋を再建しました。

震災から13年となる11日も小笠原さん夫婦は午前3時からパン作りを始めました。

震災後、初めてパンの生地をこねたときに感じた生地のぬくもり、焼き上げたパンのおいしさはいまも忘れられず、毎年、3月11日は当時を思い出しながらパンを焼いてきたということです。

11日に作った菓子パンやサンドイッチはスーパーや道の駅のほか、震災の法要が行われる寺などにも届けられるということです。

小笠原辰雄さんは「地域の皆さんのおかげでここまでやってこられたので、感謝の気持ちを忘れることはありません。これからも口にしたときに『おいしいね』と言ってもらえるようなパンを作り続けたいと思います」と話していました。

死者と行方不明者 あわせて2万2222人に

2011年3月11日の午後2時46分ごろ、東北沖でマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、東北の沿岸を高さ10メートルを超える津波が襲ったほか、関東などにも大津波が押し寄せました。

福島第一原発では、巨大地震と津波の影響で電源が喪失し、3基の原子炉で核燃料が溶け落ちる「メルトダウン」が発生、大量の放射性物質が放出されました。

警察庁によりますと、今月1日の時点で、
▽地震や津波の被害などで亡くなった人は1万5900人、
▽行方不明者は2520人となっています。

また多くの人が長期の避難生活を余儀なくされ、復興庁や各都県によりますと、体調が悪化して死亡するいわゆる「震災関連死」に認定された人は、これまでに3802人と、この1年で10人増えました。

「震災関連死」を含めた東日本大震災による死者と行方不明者は、あわせて2万2222人にのぼります。

避難生活を余儀なくされている人は減少が続いているものの、復興庁の先月1日時点のまとめで、2万9328人となっています。

被災地アンケート 交流の減少や孤立の深刻化も

被害の大きかった岩手・宮城・福島の3県では、この13年で道路や防潮堤といったハード面の整備がおおむね完了した一方で、人口減少が進んでいます。

住民基本台帳によりますと、3県の沿岸と原発事故で避難指示が出ていたあわせて43自治体のうち、震災前と比べて人口が10%以上減った自治体は全体の8割にあたる35自治体にのぼっています。

こうした中NHKが岩手・宮城・福島の被災地の1000人にWEBで行ったアンケートで被災者どうしの交流や地域のコミュニティー作りの活動状況について聞いたところ、▽「変わらない」が56%と最も多くなった一方、▽「やや減った」が18%、「減った」が16%となり、3割を超える人が減ったと回答しました。

住民の高齢化や人口の流出で活動ができなくなったなどの声が多く、交流が減った影響について複数回答で聞いたところ、▽「町に暮らす魅力が減った」が50%となったほか、▽「地域防災の体制が弱くなった」が26%、▽「精神的な孤立を感じている」が26%などとなりました。

被災地では住まいやインフラなどの復興は進んだ一方、いまも心に大きな傷を抱えて苦しみ、元の生活を取り戻せず前に進むことが難しい人たちもいます。

また、13年前の震災と原発事故で自宅を失った人などが暮らす災害公営住宅では、入居者の高齢化が進み、当初開かれていた住民どうしの交流イベントも減少するなどして、住民の孤立が深刻化しています。

国は震災から10年が過ぎた2021年度からの5年間を「第2期復興・創生期間」と位置づけて被災者の心のケアやコミュニティー作りなどソフト面の支援を継続していますが、長期的な視点で被災者の暮らしをどう支えていくのかが引き続き大きな課題となっています。

福島県 今も避難指示続くところも

一方、福島県では原発事故による帰還困難区域が7つの市町村にまたがり、今も避難指示が続いています。

帰還困難区域では国の新たな枠組みの中で避難指示解除へ向けた動きが進められていますが、一部にとどまり、除染廃棄物の県外での最終処分をめぐる問題の先行きも不透明なままです。

また、福島第一原発で行われている処理水を薄めて海へ放出する作業は、これまでに目立ったトラブルはなく、福島県産の海産物の市場価格に影響はみられていませんが、汚染水を処理する過程で放射性物質を含む水が漏れ出すなどのトラブルが相次いでいて、東京電力の作業の管理のあり方に厳しい目が向けられています。

福島県では山積している難しい課題に向き合い、復興の歩みを着実に前進させていくことが求められています。

土屋復興相 “必要な財政支援に万全期す”

土屋復興大臣は、東日本大震災から13年となるのにあわせて報道各社のインタビューに応じ、被災地の復興に向けて必要な財政支援に万全を期していく考えを示しました。

この中で土屋大臣は、被災地の現状に関し、東京電力福島第一原発の廃炉に向けた処理水の海洋放出が引き続き課題になるとした上で「正確な根拠に基づく情報を出し続けていくことが大事だ。水産業者だけでなく、農業者などのためにも、処理水による風評が払拭(ふっしょく)できるよう頑張っていきたい」と述べました。

また福島県内になお残る「帰還困難区域」への対応をめぐり「希望する住民が1日でも早く帰還できるよう、除染やインフラ整備などをしっかり進めていきたい。将来的に『帰還困難区域』すべての避難指示を解除し、復興に責任を持つ決意には揺らぎがない」と強調しました。

さらに宮城、岩手両県の現状について「ハード面に関してはおおむね完了したとの意識はあるが、心のケアをはじめとしたソフト面は課題が残る。そうした状況を受け止め、支援していく」と述べました。

そして被災地の復興について「息の長い取り組みをしっかりと支援できるよう財源を確保する。必要な事業の実施に支障をきたさぬよう、万全を期していきたい」と述べました。

能登半島地震の被災地でも震災の教訓を

元日に起きた能登半島地震の被災地では、東北からも東日本大震災を経験した多くの人たちが支援活動に向かい、13年前の経験や教訓がさまざまな形で生かされました。

これからはインフラの復旧やなりわいの再生など能登の復興に向けても、東日本大震災の教訓を伝えていくことが求められています。

タイトルとURLをコピーしました