なぜ組織の上層部ほど無能だらけになるのか? 張り紙が増えると事故も増える理由とは? 飲み残しを放置する夫は経営が下手? 7万部突破のベストセラー『世界は経営でできている』では、東京大学史上初の経営学博士が「人生がうまくいかない理由」を、日常・人生にころがる「経営の失敗」に見ていく。 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い ※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。 〈本来の経営は「価値創造(=他者と自分を同時に幸せにすること)という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だ。 この経営概念の下では誰もが人生を経営する当事者となる。 幸せを求めない人間も、生まれてから死ぬまで一切他者と関わらない人間も存在しないからだ。他者から何かを奪って自分だけが幸せになることも、自分を疲弊させながら他者のために生きるのも、どちらも間違いである。「倫」理的な間違いではなく「論」理的な間違いだ。〉(『世界は経営でできている』より) 『世界は経営でできている』では、こうした意味での「経営」が世の中に不足していることを一貫して指摘する。 だから、人生に不条理と不合理がもたらされ続けてしまうし、個人も社会も豊かになれないというのだ。
多くの人が染まってしまった「価値有限思考」
経営概念が変わらないままで、具体的にどのようなことが起こるのか。 たとえば、「会社役員の「営業成績が平均未満の人間はクビ」発言が「決定的に間違っているワケ」」では仕事における不条理について、「塩分我慢からの「油多めラーメン」爆食い…不健康な人が陥りがちな「シンプルな間違い」」では健康における経営の失敗がもたらすことを書いている。 ただ、現在では経営ときいて、冒頭に述べたような「価値創造という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げるさまざまな対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だという人はほとんどいなくなった。 〈人生のさまざまな場面において、経営の欠如は、目的と手段の転倒、手段の過大化、手段による目的の阻害……など数多くの陥穽をもたらす。 その理由は、「あらゆるものは創造できる」という視点をもたないと、単なる手段であるはずのものが希少に思えてしまい、手段に振り回されるからである。 日本において本来の経営が急速に失われたのも、平成時代の円高とデフレによって、ただの手段のはずの金銭の価値が高まり、金銭という手段に振り回され、目的であるはずの人間の共同体をなおざりにしたからだ。 経営を忘れた社会が発展するはずもない。その結果、不況がさらに価値有限思考を強めるという負の連鎖から抜け出せなくなってしまっていた。 だが、令和時代は、円安とインフレという高度経済成長期型の経済に戻りつつある。「金銭よりも人材の不足が経営に危機をもたらす」という実感も広がっている。経営概念の再転換はまさに今日的課題だ。〉(『世界は経営でできている』より) 私たちは、いつの間にか「有限な価値を巧妙に奪い取るための狡知をめぐらすこと」「価値有限思考」に染まってしまった。 そうした社会・時代だからこそ、価値の奪い合いから創り合いへと大転換をしていく必要がある。 〈立ち止まって考えてみれば、金銭、時間、歓心、名声など、人生における悲喜劇は「何かの奪い合い」から生まれることが分かる。そして奪い合いは限りある価値に対して発生する。価値がないものや限りなく創り出せるものは奪い合う必要がない。 このとき、限りあるものを奪い合う発想は短期利益志向と部分最適志向をもたらす。なぜならば「限りあるものはもたもたしているうちになくなるかもしれない」と思うからだ。 加えて、「回り道なんかしているうちに、それを誰かに取られてしまうかもしれない」という不安に駆られてしまうからである。〉(『世界は経営でできている』より) つづく「老後の人生を「成功する人」と「失敗する人」の意外な違い」では、なぜ定年後の人生で「大きな差」が出てしまうのか、なぜ人生を幸せに過ごすには「経営思考」が必要なのか、深く掘り下げる。
現代新書編集部