バブル経済崩壊後、日銀は25年にわたり異例の金融緩和策を繰り出してきたが、デフレからの完全脱却は果たせず「失敗」の歴史が続いた。 植田和男総裁は2%の物価目標の持続的・安定的な実現が見通せたと判断、マイナス金利を解除したが、賃金と物価がともに上昇する好循環が持続せず、日本経済が長期停滞から抜け出せなければ、「拙速な正常化」との批判を浴びるリスクがある。 異例の緩和策の発端になったのは、速水優総裁(当時)が1999年2月に導入したゼロ金利政策だ。2000年8月、政府の反対を押し切って解除を強行したが、審議委員だった植田氏は「デフレ懸念を払拭できたと完全に言い切る自信はない」として反対に回った。その後、米国のITバブル崩壊も重なり、景気は再び低迷。日銀は01年3月、操作目標を金利から資金供給量に変更する量的金融緩和という未知の領域に踏み込んだ。 福井俊彦総裁(同)は06年3月、量的緩和を解除し、同年7月と07年2月に利上げも実施した。ただ、08年秋のリーマン・ショックを受け、白川方明総裁(同)は量的緩和を再び導入。急激な円高は止まらず、日銀の金融緩和は不十分との批判にさらされた。 日銀不信を募らせていた安倍晋三氏は、12年末に首相に返り咲くと、総裁に積極緩和論者の黒田東彦氏を指名。13年4月に国債を「爆買い」する「量的・質的金融緩和(異次元緩和)」が始まった。2%目標を2年程度で実現する短期決戦で臨んだが、物価は伸び悩み、マイナス金利政策や長短金利操作など異例の緩和策を次々と繰り出した。 異次元緩和の長期化は、日銀が国債発行残高の5割超を保有するなど副作用も生んだ。昨年4月に就任した植田総裁は、「積年の課題だった2%目標達成というミッションの総仕上げを行う」として、長短金利操作の運用を柔軟化するなど「出口」に向けた地ならしを進めた。 総需要が拡大する中、持続的な賃上げが適度な物価上昇に波及する好循環が続けば、追加利上げも視野に入り、金融政策の正常化がさらに進む。ただ、みずほ証券の上野泰也チーフマーケットエコノミストは「潜在成長率が0%台にとどまる日本が、米国と同じ2%目標を持続的に達成するのは極めて困難」と指摘。日銀は引き続き難しいかじ取りを迫られる。