Queenフレディも信者だったゾロアスター教の教え

先週、やっと映画『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)を見に行ってきた。英国のロックバンド「Queen(クイーン)」の伝説のリードボーカルであったフレディ・マーキュリー(1946~1991年)の人生を描いた音楽映画である。日本公開の翌日に行くつもりだったが、忙しくて行くヒマがなかったのだ。

平日の初回で見たのだが、平日にもかかわらず、ほぼ満席に近かった。公開以来この映画の評判はきわめていいし、それだけ日本ではクイーンのファンの裾野が広いということだろう。私も含めて、現在50歳代半ばの人にとっては、クイーンはリアルタイムの存在だし、個人的な話だが、やや前歯の出ている私はフレディ・マーキュリーには親近感を持っている。私も子どもの頃、担任教師のささいな一言に傷つきもしたものだ。

クイーンに出会ったのは中学生の頃。いちばん最初に知ったのは、残念ながらこの映画には登場しないが “I want to ride my bicycle” というフレーズで始まる “Bicycle Race” という曲だ。中学1年生でも理解できる英語だったこともあって、なんてヘンな曲だと思った(笑)。

まあ、そんな個人的な回想はさておき、フレディ・マーキュリーの人生を振り返るこの映画では、随所でクイーンの懐かしい名曲の数々が流れてくる。思わず一緒に歌いたくなる衝動を抑えていたのだが、カラダが動くのは止められない。それだけでなく、ラストの1985年の「ライブエイド」の再現映像に向けて盛り上がっていくなかで、涙が止まらなくなってきた。

この映画は基本的に音楽映画なのだが、そう長くはない人生を生き切った男の人生ドラマであり、家族ドラマでもある。そう思って見ていると、歌詞の内容が彼の人生にオーバーラップしてきて泣けてくるのだ。そうか、 “We Are The Champions” もこういう聴き方があったのだな、と。

フレディ・マーキュリー(1977年米国公演にて)(出所:Wikipedia)

そんなフレディ・マーキュリーは、死後27年たったいまも、日本人にとってだけでなく、英国人にとっても非常に親しい存在のようだ。映画のタイトルにもなっている「ボヘミアン・ラプソディ」(Bohemian Rhapsody)は、英国史上最も人気のあるシングルとして、2002年にギネス認定されている。同じく2002年に行われたBBCの調査では、フレディ・マーキュリーは英国史上最も偉大な人物100人のうち58位にランクインしている。

日本では、英国といえばいまだにビートルズだと思っている人も少なくないようだが、英国人の心に響くのはクイーンのほうなのだ。私のかつての勤務先の同僚の英国人も、そのように言っていた。

ゾロアスター教徒だったフレディ

映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、基本的に音楽映画だが家族をテーマとした映画でもあると書いたが、映画の中ではバンドのメンバー3人と永遠の恋人だった女性も“家族”である。それだけではない。実の親子のことも指している。

拙著『ビジネスパーソンのための近現代史』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の中で、筆者は「ロックバンドの『クイーン』のフレディ・マーキュリーはインド出身のパルシー(=ゾロアスター教徒)であった」と書いた。このことは、映画でも何回か言及されている。

フレディ・マーキュリーの本名は、英語読みでファルーク・バルサラ(Farrokh Bulsara)。より原音に近く発音すれば、ファッロフ・ブルサーラー。父親は、大英帝国の植民地官僚として、当時は英国の植民地ザンジバル(現在はタンザニア)に赴任しており、フレディもそこで生まれている。8歳でインドに戻され、ボンベイにあった英国の全寮制ボーディングスクールで学んでいる。ファミリーネームのバルサラは、インド西岸グジャラート地方のバルサラードにちなんだものだ。

映画の冒頭からしばらくして家族のシーンがあるが、そこでは「パルシー」(Parsi)という表現がでてくる。「パルシー」の元々の意味は「ペルシア人」(今のイラン人)だが、映画の中ではインドのゾロアスター教徒を意味している。インドのゾロアスター教徒は、自分たちのことをパルシーと呼ぶのだ。

なぜインドのゾロアスター教徒は、ペルシア人を意味する「パルシー」と自称しているのだろうか。それを知るには、彼らの苦難の歴史を紐解いてみる必要がある。

ペルシアからインドへの「エクソダス」

インドの「パルシー」の話に入る前に、ゾロアスター教について簡単に触れておこう。

 そもそも現在でもゾロアスター教徒が世の中に存在することに、驚く人もいるだろう。歴史の教科書には「拝火教」として登場するゾロアスター教だが、留学先の唐の都で空海が目撃したり、正倉院時代の日本にも来日しているという話はエピソードとして聞いたことがあるかもしれない。だが、古代が終わったあとも、決して消滅してしまったわけではなかった。超マイノリティとなっているが、現在でも存在しているのである。

イランのゾロアスター神殿における拝火壇(出所:Wikipedia

ゾロアスター教は古代ペルシアで生まれた宗教である。開祖はゾロアスター。善と悪の二元論にもとづき、最終的には善なる存在のアフラ・マズダが勝利することを説いている。3500年前に生まれたゾロアスター教は、中東で生まれたユダヤ教をはじめ、キリスト教やイスラームという一神教に大きな影響を与えた存在でもある。

ゾロアスター教という宗教をごく乱暴に要約してしまえば、最高神アフラ・マズダを中心にした7柱の神々、1日に5回の礼拝、3つの「善い(よい)」ということになるだろう。「七五三」とすると覚えやすいかもしれない。聖なる火を礼拝し、守り続けていることで「拝火教」と呼ばれるが、最初からそうだったわけではないようだ。

教義の内容はさておき、最も重要な徳目は「3つの善い」である。「3つの善い」とは「善い考え、善い言葉、善い行い」のことである。常に善いことを考え、それを言葉として口にするだけでなく、行動で示すことが、ゾロアスター教徒として生きるうえの実践倫理であり、子どもの頃から徹底的に叩き込まれるのである。映画でも冒頭とラスト近くの合計2回、フレディ・マーキュリーの父親が口にしている。

ゾロアスター教は古代以降も中世ペルシアで栄えた。だが、7世紀に誕生したイスラームが破竹の勢いで中東世界全域に拡大し、ササーン朝ペルシアがアラブ勢力に滅ぼされたのち、ペルシアはイスラーム化されることになる。イスラーム王朝の支配下で、ゾロアスター教徒は集団改宗を迫られるなど迫害を受け、ペルシアではマイノリティとなっていく。

迫害が続くなか、ゾロアスター教徒は10世紀にペルシアを脱出して、難民としてインドに集団移住した。だから、彼らは自分たちのことを「パルシー」(=ペルシア人)と自称したのである。

その意味では、パルシーのインド人はペルシア人の末裔であり、ペルシア系インド人といえる。この集団移住は、旧約聖書時代にエジプトから脱出したユダヤ人の「エクソダス」になぞらえることができるかもしれない。

ペルシアとインドの地理的関係

東アジアに位置する日本にいると気がつきにくいが、実はインドは中東世界の東側に位置している。梅棹忠夫がロングセラーの名著『文明の生態史観』(1965年)で指摘したように、東洋でも西洋でもない「中洋」という枠組みで捉えたほうががしっくりといくのがインドなのである。

古代から、アラビア海を挟んだペルシアとインドは密接な関係にあった。ゾロアスター教徒たちが、海路を使ってもともと交易関係のあったインド西岸に断続的に移住したのは、その意味ではきわめて自然なことだといえるかもしれない。インドに集団移住後も、ペルシアに残ったゾロアスター教徒たちとの連絡が続いていたようだ。

パルシーと自称するようになったインドのゾロアスター教徒は、ムスリム王朝であったムガル帝国時代を経て、大英帝国に支配される時代には商都ボンベイ(現在は、ムンバイ)を中心に商業で活躍した。植民地体制に適応して、速やかに西欧化したパルシーは、大英帝国の枠組みを最もフルに活用したインド人たちだったと言えよう。フレディ・マーキュリーの父親もその1人であった。

タタ財閥の創業ファミリーはパルシー

タタ財閥の創業者のジェムシェトジー・タタ(出所:Wikipedia)

インドのパルシーは、著名人を多く輩出している。フレディ・マーキュリーのほかに、音楽分野ではイスラエル交響楽団の終身音楽監督で指揮者のズービン・メータがいる。だが、圧倒的に多いのはビジネス関係だ。

インドを代表する財閥といえばタタ・グループ(Tata Group)である。自動車分野、IT分野を含め、多方面にわたってビジネスを展開しているコングロマリットだ。

タタ・グループの発祥は大英帝国時代の1868年(明治元年)である。創業者のジェムシェトジー・タタ(1839~1904年)はパルシー出身であり、創業以来現会長のラタン・タタまで代々の総帥はパルシーである。

創業者のジェムシェトジー・タタは、1868年にボンベイ綿貿易会社を創業し、1870年代には綿紡績工場を建ててインド有数の民族資本家となった。それがタタ財閥の出発点である。支配者である英国との折り合いがよく、大英帝国の枠組みをフルに活用した企業家であった。

植民地時代のインドに限らず、帝政時代末期のロシアでも、産業革命期の英国もまたそうだが、資本主義の担い手にはマイノリティ出身者が多かった。ヒンドゥー教徒が人口の大半を占めるインドでは、パルシーはもちろんマイノリティであった(英国の植民地時代のインドはパキスタン分離独立以前でムスリム人口も多かった)。

タタ・グループは、厳しい倫理観に基づいた理念経営を実践していることでも有名だ。その理由は、先にも触れたように、ゾロアスター教徒にとって最大の重要徳目である「3つの善い」をベースに据えているからだ。

「善い考え・善い言葉・善い行い」に基づいた理念経営ゆえに汚職とは無縁、そもそもカースト制度とも無縁のため実力主義を貫いてきた。また、労働者に配慮して、いち早く近代的な福利厚生を導入し、慈善活動を含め社会貢献にも積極的に取り組んできた。

宗教的に寛容なインドは難民を受け入れてきた

現在のナレンドラ・モディ首相は、「ヒンドゥー・ナショナリズム」を党是とするインド人民党」(BJP)の党首でもある。そのことから、ヒンドゥー教がインドの「国教」だと思っている人がいるかもしれない。

 ところが、インドは「政教分離」を旨とする世俗国家であり、基本的に宗教的に寛容である。中国共産党による過酷な迫害を逃れ、1950年代にダライラマ14世を筆頭に難民として脱出してきたチベットの仏教徒を受け入れている点にも、それを見ることができるだろう。

遠い昔の10世紀に難民として移住してきたパルシー(ゾロアスター教徒)は、その先駆的存在である。イスラーム王朝のムガル帝国の支配下でも、ヒンドゥー教徒とムスリムは共存してきた。

インドでは、ヒンドゥー教が人口の8割を占めるマジョリティであるが、複数の宗教の信者たちが互いに異教徒として併存し、「分断」されている。この状況を固定化したのも、「分割統治」を基本方針とした大英帝国時代のことだ。

ただし、異教徒たちが併存するとはいえ、現在、パルシーの人口はたったの7万5000人に過ぎない。全人口が13億人超のインドでは“超”マイノリティであることは否定できない事実だ。

全世界に分散しているゾロアスター教徒を全部あわせても12~13万人と、世界的にみてもマイノリティであることに変わりない。とくにインドのパルシーは、婚姻に関しても同じパルシーであることを求める厳格なポリシーのため、減少の一途をたどっている。タタ財閥の現会長のラタン氏も、すでに高齢であるが、本人に見合った家柄の女性がいないためか、独身のまま過ごしてしまったらしい。

そういった存在のパルシーの家庭に生まれ、英国に移住した家族の一員であったフレディ・マーキュリーは、性的嗜好がゲイであっただけでなく、出自そのものが超マイノリティであったのである。伝統に反発して自分の道を切り開いた彼の人生に、その出自はどのような影響を与えたのだろうか。それを想像してみると、映画はさらに厚みを増すことだろう。

 映画『ボヘミアン・ラプソディ』の主人公フレディ・マーキュリーがパルシー出身であったことを口切りに、ゾロアスター教についていろいろ書いてきたが、最後にフレディの前半生自体がゾロアスター教徒がたどった歴史とオーバーラップしていることについて書いておきたい。

すでに触れたとおり、フレディ・マーキュリーはアフリカ東岸のザンジバルで生まれた。現在はタンザニアの一部となっているザンジバルは、独立前は大英帝国の植民地であった。

ザンジバルは、1963年12月10日に英連邦の一員としてザンジバル王国として独立した。しかし、その翌月の1月12日に、長年にわたるスルタンの支配に不満をもっていた現地人による反乱で王政が転覆され、ザンジバル人民共和国が樹立されている。これを「ザンジバル革命」という。

革命の混乱のなか、支配層のパトロンであった裕福なアラブ人貴族やインド人商人が大量に殺害された。そうした事態に身の危険を感じ、フレディ・マーキュリーの家族もザンジバルから英国に移住したのである。

その姿は、10世紀にペルシアから難民としてインドに脱出した先祖たちの歴史にオーバーラップするものがある。だが、フレディ自身が、どこまでそのことを意識していたかは分からない。

とはいえ、46年という長くはなかった人生の晩年には、かつて反発した父親とも和解し、葬儀はゾロアスター教に従って行われた、フレディ・マーキュリーことファルーク・バルサラの人生を考えるうえで、記憶にとどめておきたいエピソードである。

前半生を大英帝国時代のアフリカとインドで過ごし、世界的スーパースターとなった英国人フレディ・マーキュリーは、まさに大英帝国の申し子であったといえよう。その意味で、クイーンというバンド自体が、大英帝国なくしてはありえなかったと言っていいのかもしれない。

 

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