この100年間、日本からは数々の発明が生まれました。ウォークマン、新幹線、デジタルカメラ、低燃費の自動車、カラオケなどなど。でも2000年12月に行われた投票では、日本人はインスタントラーメンを日本の20世紀最大の発明に選びました。
これは意外かもしれませんが、インスタントラーメンの発明者・安藤百福氏は、その評価に相当するような大志を抱いていたのです。インスタントラーメンは単なる消費者向け製品のように見えるかもしれませんが、経済的困難や自然災害に際して数百万人の生活を助けてきました。これは小さなことではありません。今回の日本の津波や原子力危機にあたっても、被災した人たちの糧になっています。安藤氏の遺産は今回改めてその価値を示したのです。
1945年8月15日、日本が連合軍に降伏した日、安藤氏は大阪の地元を歩き、戦争で傷ついた街を見回っていました。街は広島や長崎のような原爆の被害はまぬがれたものの、それでも壊滅的でした。空襲によって安藤氏の建てた工場とビル2棟が破壊され、彼は路頭に迷っていました。彼は歩きながら、鉄道駅の残骸の中に集まる人たちに出くわしました。その人たちはラーメンを食べるために、屋台の前に行列をなしていたのです。安藤氏は思いました。これだけの人が、一杯のラーメンを待っている…。その後明らかになるように、麺類は全世界的に心安らぐ食べ物で、日本人の場合それがラーメンなのでした。
食糧不足は第二次世界大戦後の日本で大きな問題になりました。安藤氏は、この時代のもっとも喫緊の課題が飢餓だと考えました。彼は「すべての人に十分な食料があれば、世界に平和が訪れる」と考えました。安藤氏は日本ですべての人に食料をいきわたらせたいと考えたのです。
でも当時の彼は、そのために行動できる状態ではありませんでした。彼は戦後ある信用組合の理事長になっていました。が、1957年に信用組合が倒産して安藤氏は職を失い、日本に食料をいきわたらせる仕事に取りかかれるようになったのです。
彼はまず、戦後において理想的な食料とはどんなものか要件を書き出しました。するとそれは、こんなものになりました。
・おいしい
・腐敗しにくい
・3分以内で作れる
・経済的
・安全で健康的
そのとき安藤氏は、10年以上前に見たラーメン屋台の行列を思い出しました。そして大量生産のラーメンを作る仕事にとりかかりました。急速に産業が発展するこの時代の労働者たちを満足させるものを作ろうと。
安藤氏は1年かけてラーメンの保存方法開発に取り組みましたが、成功しませんでした。水に戻した麺の質感に満足できなかったのです。でもある日、妻が夕食作りのために使っていた天ぷら油に麺を入れてみました。すると、揚げることで麺から水分が抜けるだけでなく、表面に小さな穴が空いて調理が早くなる効果もあることがわかりました。インスタントラーメンは、こうして生まれました。
安藤氏は48歳にして、最後の仕事に就きました。ミスター・ヌードルです。「失敗や恥というものは、体についた筋肉のようなものだと悟りました」と彼は後に述懐しています。彼は信用組合が倒産したとき非常に罪悪感を感じ、インスタントラーメンがある種の穴埋めのようなものになりました。安藤氏はその製品を信仰と言ってもいいほどの熱意で売り込みました。まるでラーメンで飢餓を終わらせるための聖戦を戦っているように。
安藤氏の最初の製品、チキンラーメンが1958年に発売されたとき、日本人の大衆はぜいたく品だと捉えました。従来のラーメン店のラーメンよりも若干価格が高かったのです。でも消費者はすぐに家でラーメンを作れる便利さを喜び、売り上げが上がり始めました。インスタントラーメンは日本の必需品となり、他社も参入してきました。
安藤氏は国外にも顧客を求めました。アメリカ人はラーメンにも箸にもなじみがありませんでしたが、彼はそれに屈せず「フォークで食べさせよう」と言い切りました。
1966年の米国出張で、安藤氏は新たなアイデアを思いつきました。伝説によれば、安藤氏はロサンゼルスにあるスーパーへの売り込みの際、彼らが発泡スチロールのコーヒーカップにラーメンを入れているのに気づきました。そしてそのアイデアを新製品に取り入れようとしましたが、カップ入りのインスタントラーメンの開発にはさらに5年かかりました。カップヌードルが1971年に発売したとき、それはすぐにセンセーションを巻き起こしました。日清食品はすでに200億個ものカップヌードルを販売しています。インスタントラーメンが専用の容器に入って売られているなんて、これ以上の便利さがあるでしょうか?
そして宇宙ラーメンです。2005年、日清食品は宇宙飛行士の野口聡一さんのディスカバリー号での宇宙飛行のために真空パックのインスタントラーメン「スペース・ラム」を開発しました。「スペース・ラム」は無重力環境用に作られ、スープにとろみをつけて飛び散らないようになっており、またお湯は通常ほど高温でなくても調理できるといった工夫がされていました。
2007年に安藤氏が亡くなると、葬儀が行われた野球場はいっぱいになり、野口聡一さんや歴代総理大臣が弔辞を読みました。元首相は安藤氏を「戦後日本が誇るべき食文化の創造者」とたたえました。安藤百福氏はインスタントラーメンを国家的象徴に変え、インスタントラーメンは安藤氏を国家的ヒーローにしたのです。
近代日本と同じように、安藤氏も第二次世界大戦の悲劇から立ち上がり、経済的に大きな力を持ちました。日清食品の社長として、安藤氏は会社を個人経営から多国籍企業へと発展させ、今や年間売上は3000億円を超えています。
亡くなる前日、安藤氏は新年の訓示のために大阪にある日清の工場を訪れていました。2005年に引退しており、すでに95歳でした。安藤氏はこの訓示でラーメンについての思いを表すのがつねで、その言葉は徐々に哲学になっていきました。(葬儀では6500人の参列者に彼の語録が配られました。)安藤氏にとって、「人間についての根本的な誤解は、我々がすべての欲望を満たせると思うことである」ということでした。安藤氏は人間の要望に対して資源が限られていることを強く意識していました。その思想を料理にあてはめて言えば、それは味よりも栄養を重視するということでした。インスタントラーメンは生のラーメンと同じ味ではありません。でも、世界中を食べさせることができるかもしれず、それは素晴らしいことではないかと。
最終的に、インスタントラーメンは世界の食のシンボルになりました。安藤氏はどんな厳しい時代でも人間の生活を維持できるような食料を作ろうとしており、インスタントラーメンはそれを非常に効果的に実現しました。2008年、全世界のインスタントラーメン消費量は年間940億個にも達しています。一人あたり14杯です。現在、インスタントラーメンはまさに人類のための食料となりました。安藤氏が言ったように「人類は麺類」なのです。