4月27日、陸山会の不動産取得に関連する政治資金規正法違反についての小沢一郎民主党幹事長に対する東京地方検察庁の不起訴処分について、東京第5検察審査会は起訴相当の議決を公表した。
これを受け、新聞、テレビ等のマスコミ、自民党などの野党だけではなく民主党の内部からも、「小沢氏の刑事責任を追及すべしとする民意が示された」として、小沢氏の政治責任を追及し、幹事長辞任を求める声が高まり、小沢氏は窮地に立たされている。
かつては、検察審査会が、検察官が行った不起訴処分が不当だとする議決を出しても何ら法的拘束力はなく、検察が再捜査の末、再度不起訴にすることに何の制約もなかったが、2009年5月に施行された検察審査会法の改正によって、「起訴相当」の議決が2回行われた場合には、裁判所が指定する弁護士によって強制的に起訴の手続きがとられることになった。
このような起訴強制という制度の導入によって、今回の「起訴相当」という議決の結論が重大な政治的影響を及ぼすことになった。
しかし、今回の検察審査会の議決については、いかなる事実が起訴相当とされたのか、という点がほとんど報じられておらず、また、制度の目的や議決に法的拘束力が認められるに至った経緯も十分に理解されているとは言い難い。
これらの点についての理解を欠いたまま「起訴相当」という結論だけが独り歩きし、政治状況に重大な影響が生じるのは、民主主義と司法の関係という面でも憂慮すべき事態である。今回の議決をめぐる問題を整理して考えてみることとしたい。
検察審査会への申し立てまでの経緯
まず、今回の議決で「起訴相当」とされた被疑事実の中身である。
要するに、平成16年分の収支報告書に土地代金の支払と土地の取得について記載せず、平成17年分の収支報告書に記載したのが、いずれも虚偽記入にあたるということだ。
代金を支払って土地を取得したのが平成16年10月末なのに、それが政治資金収支報告書には平成17年1月7日と記載されていることが「虚偽」であり、それらの点について小沢氏の共謀の責任を問うべきだというのが検審の議決の趣旨だ。
しかし、そのような不動産の取得時期、代金支払いの2カ月余りの期ズレの問題が、政治資金規正法上、重大だと言えるのであろうか。不動産の取得時期を、代金支払の時期とするのか、登記が完了した時点とするのかについては考え方の違いがあり得る。登記時点で不動産を取得したとの見解をとり、代金支払の時期もそれに合わせて2カ月ほどずらして記載した、ということなのであれば、それが間違っていても、収支報告書作成に関する単なる事務手続上の問題であり、報告書訂正でも何ら問題はないはずだ。
このような事実だけでは、民主党幹事長の小沢氏のみならず、いかなる国会議員も起訴すべき政治資金規正法違反事実とは言えない。そのことは、検察の捜査でも、マスコミ報道でも、当然の前提とされてきたはずだ。
今回の陸山会の不動産取得をめぐる政治資金規正法違反事件で問題にされてきたのは、不動産購入の資金の問題だった。その資金が小沢一郎氏から現金で提供された4億円によるもので、それが収支報告書に記載されていなかったことが問題にされた。疑惑の核心は、小沢氏から提供された現金の原資にゼネコンからの裏金が含まれていたのではないかということだった。この点に関して新聞、テレビでしきりに報じられたのが、平成16年10月に水谷建設から当時陸山会の会計を担当していた石川知裕氏に5000万円の裏献金が提供された疑いがあるということだった。
現職の衆議院議員の石川氏が通常国会の3日前に逮捕された際の容疑事実は、形式的には、小沢氏から提供された現金4億円の収入を収支報告書に記載しなかったというものだった。しかし、実質的な逮捕の理由が、その収入の中に水谷建設からの5000万円の裏献金が含まれているという疑惑の存在にあったことは明らかだった。
しかし、結局、5000万円の裏金の事実は、東京地検特捜部の捜査によっても明らかにならなかった。石川氏の逮捕は捜査の見込みを誤ったものだった。ゼネコンからの裏献金の事実が明らかにならなかった以上、起訴すべき重大性を持った政治資金規正法違反とは言えず、本来は石川氏の起訴も考えられないものだったが、検察が独自に政治家を逮捕した事案で起訴しない選択はあり得ない。石川氏は、勾留満期の日に、不動産購入資金の4億円の収入を記載しなかった事実で起訴された。
起訴された事実の中心となったのは、この4億円の収入を平成16年の陸山会の収支報告書に記載していなかったという事実であり、ゼネコンからの裏献金の事実は起訴事実にはまったく含まれていなかった。
そして、石川氏の逮捕後に、2回の東京地検特捜部の任意の事情聴取を受けた小沢氏は、石川氏の起訴と同じ日、「嫌疑不十分」で不起訴となった。石川氏の起訴事実についての共謀が認められないという理由だった。この不起訴に対して、「秘書の行為を政治家が知らないわけがない」と、マスコミからは批判の声が上がった。
そして、この不起訴処分に対して、検察審査会への審査の申し立てが行われ、今回の議決に至った。
検察が再度不起訴とした場合はどうなるか
石川氏の逮捕・起訴に関しても、小沢氏の不起訴に関しても、問題にされていたのは、4億円の収入についての収支報告書への記載であり、不動産購入代金の支払や不動産の取得時期のズレについて収支報告書の虚偽記入が問題にされることはまったくなかった。一応、逮捕・起訴事実には支出の記載の問題も含まれてはいたがほとんど問題にはされていなかった。ところが、今回の検察審査会の議決は、4億円の収入の問題ではなく、単なる期ズレの問題だけで「起訴相当」と判断した。小沢氏から提供されたとされる4億円の収入を陸山会の収支報告書に記載したかったという事実について小沢氏の共謀が認められないという点については、検察審査会も検察と同様の判断をしたということであろう。
しかし、議決が起訴相当とした被疑事実が単なる期ズレの問題だということを、マスコミはまったく報じない。検察審査会で「起訴相当」の議決が出たという結論だけが問題にされ、そのことだけで、小沢氏の政治責任が論じられている。
政治資金の収支の公開を求める政治資金規正法の趣旨・目的から考えて、検察審査会が起訴相当とする事実がこの期ズレの点だけである以上、検察には不起訴処分を覆して小沢氏を起訴することは到底できないであろう。
検察が再度の不起訴処分を行えば、検察審査会で再び審査が行われる。その際、検察官が検察審査会で説明を求められることになるであろう。ここで、検察官は、政治資金規正法というのはどういう法律で、どのような違反行為を罰則の適用対象とすべきかについての一般的な考え方を十分に説明しなければならない。この説明で審査員を説得できない場合には、2度目の起訴相当の議決が出され、検察は、特捜部の事件での起訴強制という、初めての悪夢のような事態に追い込まれる。
裁判所が指定する弁護士が、「公訴を提起し、及びその公訴の維持をするため、検察官の職務を行う」ことになるが、そのためには、それまでの検察の捜査で収集した証拠はすべて指定弁護士に提供しなければならないであろう。検察の「不起訴」という処分が否定され、起訴すべきとされたのであるから、不起訴となった事実に関連する資料、証拠すべてを指定弁護士に提供するのは当然であろう。
それによって、検察が膨大な労力と時間をかけて行ってきた捜査の内実が、指定弁護士を通じて公判で明らかにされる可能性がある。そのような事態につながる特捜部の事件の強制起訴というのは、検察にとって絶対に避けたいことのはずだ。しかし、だからと言って、単なる期ズレの被疑事実について「起訴相当」だとする今回の検審の議決に従って起訴することは考えられない。もし、そのようなことを検察が敢えて行うとすれば、検察の存在意義自体が問われる。
小沢氏不起訴という検察の決定に不満を持つ特捜部の現場サイドに、検察審査会で起訴相当の議決が出ることを期待し、それを受けて小沢氏の起訴に持ち込もうとする動きがあったという話が一部で伝えられているが、検察の組織としての決定を外部からの力で覆させようというのは、検察官としてのプロフェッショナリズムがある限り、あり得ない。今回の検察審査会の起訴相当議決が、検察にとって極めて深刻な事態であることは明らかだ。
正しい説明をしてこなかったことがそもそもの原因
しかし、そのような事態も、すべて、今回の一連の事件の捜査によって検察が自ら播いた種と認識すべきだ。小沢氏を不起訴にした段階で、小沢氏を起訴することは到底困難であったということを正しく説明していれば、それが報道されて、起訴できない理由が世の中に正しく理解され、不起訴処分が検察審査会の審査員に受け入れられたはずだ。ところが、検察は、それまでの捜査を正当化するため、「小沢氏を起訴する余地もあったが慎重を期して不起訴にした」というような負け惜しみ的な説明をした。
石川氏、小沢氏の処分の直前、「検察の『暴発』はあるのか」でも述べたように、そもそも、ゼネコンからの裏金の事実が明らかになったわけでもないのに、現職の国会議員の石川氏を逮捕・起訴すること自体が検察の常識からは考えられないことであり、その石川氏との共謀で小沢氏自身を起訴するということはおよそあり得なかった。しかし、小沢氏不起訴の時点でそのようには説明できなかった。それによって、小沢氏の起訴をめざして捜査すること自体が暴走だったことを認めることになるからだ。
そもそも、西松建設事件以来の一年にもわたる小沢氏を目標にした捜査が暴走に次ぐ暴走だったのだが、決してそのようには言えない。結局、世の中に誤解を与えるような苦し紛れの説明をせざるを得ず、それがマスコミを通じて世の中に広まり、検察審査会の審査員に誤った認識を与えることになる。その結果が、今回のような検察にとって極めて深刻な事態を招いたと言うべきであろう>
今回の検察審査会の議決書の内容に関する問題で、ほとんど報じられていない事項が他にもある。それは、審査申立人が「甲」と匿名で表示されていることだ。
検察審査会法では、申立によらない「職権による審査」も認められている。本件が、匿名の密告による職権審査なのであれば、その旨、議決書に明記すべきであろう。申立による審査という外形をとりながら、審査申立人を匿名にすることは許されないはずだ。なぜ審査申立人の名前を匿名にするのか。これだけの大きな政治的影響が生じる事件であるだけに、審査申立人の氏名を議決書に表示するのは当然であろう。
議決が法的拘束力を持つに至ったのはなぜか
そもそも、検察審査会の議決に法的拘束力を持たせる制度がなぜ導入されたのか、という点もまったく報道されていない。起訴強制の制度の導入のきっかけになったのは、2001年に起きた福岡地検の次席検事による捜査情報の漏洩問題だ。
この問題についての法務省の調査報告書に、「公訴権の行使や検察運営に関し、民意を反映させることは、検察が独善に陥ることを防ぐとともに、検察に対する国民の信頼と理解を得る上で大きな意義があり、具体的には検察審査会の一定の議決に法的拘束力を与えることに加えて」という記述がある。
大地検の次席検事が捜査情報を被疑者側の裁判官の側に漏洩し、事件を不起訴で決着させて恩を売ろうとした。そういう検察の権限を悪用するような重大な問題が起きたことで検察に対する社会の信頼が大きく損なわれたために、検察官の権限を一部制限する制度の導入を自ら提案せざるを得なかった。
要するに、この制度は、検察の重大な不祥事のために、起訴権限を独占し「刑事司法の正義」を全面的に担っていた検察の権限を制限する方向で導入された制度なのだ。
検察審査会制度は、その名のとおり、検察による公訴権の実行が適切に行われているのかどうかを「民意」によって審査する制度だ。2回の「起訴相当」の議決によって強制起訴されるという制度が導入されたのも、検察官の処分権限が恣意的に行使され、悪用される問題が発生し、検察の処分の公正さへの信頼が著しく損なわれたのを契機に、同様に検察の処分の公正さが疑われる場合に、検察とは別個に裁判所が指定する代理人によって公訴権を実行する余地を認めるという趣旨と理解すべきであろう。検察官の処分から離れて「裸のままの民意」によって公訴権を実行させ、刑事裁判にかけるということは、本来の検察審査会制度の目的とするところではない。
今年4月に緊急出版した拙著『検察が危ない』でも詳しく述べているように、暴走・劣化を繰り返す最近の検察は、日本の社会にとって、そして民主主義にとって危険な存在になりつつある。検察の権限行使に関連する制度は、検察の権限行使が独善に陥り、恣意的、政治的に権限が行使されることがないよう、民主的コントロールの在り方が検討されるべきであり、その制度の一つとしての検察審査会制度も、組織内部で不透明な形で恣意的な不起訴処分が行われないようにすることが本来の目的とすべきだ。今回の議決のように、その制度が、検察の暴走と同じ方向で政治的影響を生じさせるように働くというのは本末転倒だ。
検察審査会という制度が、そもそも何のためのものであり、社会に対してどのような機能を果たすべきなのか。改めて考えてみる必要があろう。
郷原 信郎(ごうはら・のぶお)
名城大学教授
コンプライアンス研究センター長
郷原信郎1955年島根県生まれ。東京大学理学部卒。東京地検特捜部、長崎地検次席検事、法務省法務総合研究所総括研究官、桐蔭横浜大学法科大学院教授などを経て、2009年から現職。警察大学校専門講師、公正入札調査会議委員(国土交通省、防衛省)なども務める。主な著書に『「法令遵守」が日本を滅ぼす』(新潮新書)、『入札関連犯罪の理論と実務』(東京法令出版)、『思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本』(講談社現代新書)など。近著には『検察の正義』(ちくま新書)がある。